書き出しは作品の命。
何かしら文章を書くことを志した人なら誰しも、一度は出会うはずの言葉。
書き出し(導入部)でいかに読者を作品世界に引き込めるか、作品の向かうべき方向を匂わせることが出来るか……に、書き手は苦心する。
そこに注目すると、この作品は凄い!鳥肌が立つ。最初の二三ページで、父と息子の微妙な関係(気まずさまでも)が浮き立つのだ。
鋭い人間観察眼と、神様と言われる小説の構成力あっての賜物。
これは是非一度は読んでおくべき作品です。
すべての生は寓意に帰する。
藤村によって達成された告白文学の頂点。この小説を現在なお続く同和問題と結びつけて
しまっては、悲しいかな、その本質は何一つ理解されることがない。
人にはどうにも抗うことのできぬ宿命がある、先天的にせよ、後天的にせよ。あるいは人は
運命を変えることはできるかもしれない、しかし、宿命を変えることはできない。担う宿命
こそ違え、この一点において人はみな等しい。その悲しい屈服を論じた一冊。
「生まれてすみません」
太宰のけだるきナルシシズムにこのことばは似合わぬ、藤村の告白にこそふさわしい。
部落如何にかかわらず、すべての生に象徴的な作品。
◆「清兵衛と瓢箪」
作者自身の父子対立が投影された作品といわれていますが、
そのような文学史的知識がなくても、一篇の小説として、
非常に完成度が高いので、充分たのしむことができます。
清兵衛の趣味に対する周囲の無理解や理不尽な抑圧が露骨に描き出される一方、
清兵衛自身は、それに対して必要以上に萎縮したり鬱屈することなく、後には絵という
新たな趣味に目覚め、マイペースを貫いています。
その姿が実にすがすがしいです。
もちろん、清兵衛の目利きが確かなものであったと
証明されるくだりも、若干ベタですがやっぱり痛快。
ただ、そんな清兵衛をなおも苦々しく思っている彼の父が示す
「最後の一行」の行為は、今後の波乱を予感させ、不穏な余韻を
残しており、本作にふさわしい絶妙の下げだといえましょう。
◆「児を盗む話」
「貴様は一体そんな事をしていて将来どうするつもりだ」という父の罵声から始まる
本作は、ある意味「清兵衛と瓢箪」の後日談、あるいは裏ヴァージョンとして読める作品。
タイトルが示す通り、作中の“私”が見ず知らずの少女を家に連れ帰ってしまうという話で、
良識派からすれば眉をひそめるような内容でしょうが、“私”を苛む不安や焦燥は、切実で、
ひどく現代的に感じました。
秤屋の小僧仙吉に、妙なことから鮨を御馳走してやる主人公のある微妙な気持が主題であるが、小僧の動作や気持、そしてその情景がおどろくほどのリアルさで描かれており、読んでいて鮨の味まで思い出してくるようである。この「小僧の神様」は、志賀さんの短編のなかでも「清兵衛と瓢箪」とならび立つ、最もすぐれた作品である。
『暗夜行路』は色々な要素が複雑に絡まり合った巨大な作品ですが、「赦し」は本作における主要なモティーフの一つだと思いました。自我の絶対的な肯定を前提にしているだけあって「赦す」ことの倫理学的妥当性が自明のものとして問われることはありませんが、そのような検討の必要性をまったく感じさせないあたりも志賀文学の強さなのかもしれません。もっとも赦しの実現によって作品が閉じられるわけではなく、むしろ未解決のまま未来に託されていくことで、この問題が安易に解決され得ない生涯にわたって追い続けるべきものであることが示されるのです。 一語一語苦しみ悶えながら刻みつけられたであろうことが明白な文章に、私はある種の畏敬の念を覚えずにはいられませんでした。最初に読み始めたのは社会での複雑な人間関係に悩んでいた二十代はじめで、辛くてとても読み通せませんでした。恥ずかしながら三十も近くなってようやく読了したのですが、感慨は複雑で、人間であること、人間であり続けることの言葉にならない厳しさに圧倒されて、まとまった感想を持つことができないでいます。 志賀の作品は「私小説」「心境小説」などといわれる我が国特有のジャンルに分類されます。この系統の作品は色々形を変えて書き継がれていますが、残念ながら質は低下するばかりで、現在では先行作品を読まずに誰でも書ける薄っぺらなカラオケ文学の台頭を許している状態です。私小説の衰退は純粋に作家の才能に帰すべき問題ですが、残念ながらジャンルそのものへの批判に繋がることも多く、本作のような古典的名作を必要以上に敬遠させる要因にもなっています。 大江健三郎や谷崎潤一郎の作品のように物語を追求した文学は確かに面白い。でも、虚飾を排し人間の存在をそのまま鏤刻したような文学も素晴らしいものです。若い人たちも食わず嫌いせずに、こうした作品の本質的な素晴らしさを知って頂きたいと思います。
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