全体的な作りとしてはオーソドックスにきちっと作ってある印象で、飛び抜けた所もないが悪い所もない感じです
今回の特徴としては銃がわりと多めに出て来るところと最後がカチコミじゃなくて、河原の決闘なところでしょうか
オープニングからして馬車と馬で西部劇風なところからして、そういう西部劇とか渡り鳥風を微妙に狙っているのかもしれません
高倉健が銃片手にヤクザの組にのりこむところなんかもありますし・・・
まぁちゃんとドスも出てきますけどね
ストーリーは
岡蒸気を中心に据えて、それにまつわる利権と岡蒸気が通ることによって職を失う人たちとの確執との三つ巴で争いが起こる
そしてお竜さんがそれらを解決して無事矢野組二代目襲名して、矢野組が今後全ての鉄道工事利権を掌握する
という感じで
全作中、矢野組がしっかり出てくるという意味でわりと重要な回です
まぁ二代目になったのに最後は結局、旅立っちゃうんですけどね
(あれは人殺したからその地域にはいられないということなのでしょうか?)
そういえば今回、若山富三郎は珍しく出ていませんでした
そして珍しく嵐寛寿郎は暗殺されませんでした
葦平、泰次郎、泰淳、知二、順、宏、鱒二、道夫……、文士が、続々とアジアの戦場に出る。彼らは満州から中国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インド……、大東亜共栄圏のために積極的にしろ消極的にしろ陸海空で戦う。
そして著者は読者を道ずれに、にわか戦士となった文士のその足跡を、執拗に追う。追いながら、その抽象的な戦争体験ではなく具体的な戦場体験を疑似追体験しながら生々しく執拗にあぶりだす。戦争体験と戦場体験は天地ほども違う。
戦場は普通の市民を狂気に駆りたて、精神を錯乱させて地獄の亡者に変身させる。この世の修羅に全身を晒した彼らにとって、もはや理非曲直を冷静に判断することはできない。頭でっかちの歴史観は蒸発し、血と殺戮と動物的本能だけが彼の知情意を支配するのだ。
兵士相手の慰安婦たちの手摺れた肉体にはない村落の中国人女性の肉体を犯すことでおのれの肉体奥深く仕舞いこまれていた官能の火が消せなくなった文士がいる。中国兵を殺さざるを得なかった文士がいる。そして、それは、僕。それは、君。
中国女を強姦し、中国兵の捕虜を斬殺し、強盗、略奪、放火、傷害その他ありとあらゆる犯罪を意識的かつ無意識的に敢行する「皇軍」兵士と、その同伴者の立場に立たざるを得なかった文士たち。この陥穽を逃れるすべは当時もなかったし、これからもないだろう。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
恐ろしい句だ。悲愴で真率の句だ。そして彼らは、この惨憺たる最下層の真実の場から再起して、彼らの戦後文学を築き上げていったのである。
私たちは、「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもよい。早く済さえすればよい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」、という井伏鱒二の言葉をもう一度呑みこむために、もう一度愚かな戦争を仕掛けて、もう一度さらに手痛い敗北を喫する必要があるのかもしれない。
カラオケには収まっていても、原作すら古書店街でも目にしなくなり、ため息交じりの中、復刊されたことは喜ばしい。
たまたま、岩波現代文庫に収まっていることを知り、早速に購入した。神田の古書店でもなかなか購入できるものではなかっただけに、感無量だった。
この小説の舞台は北九州の若松港だが、日本のエネルギーが石炭であった頃のことである。筑豊炭田の石炭は人力で遠賀川河口へと運ばれ、八幡製鉄所、若松港の汽船の燃料として重宝された。その石炭も、沖仲仕によって汽船に積み込まれていたのだが、その請負をしていたのが著者の火野葦平の実家が営む玉井組だった。その玉井組を創設した玉井金五郎、マンという夫婦の物語であり、脚色された部分もあるが、義理と人情が沖仲仕の倫理観といわれるなか、読みごたえのある内容となっている。
この小説の中に登場する玉井金五郎の敵方の首領が吉田磯吉という大親分である。この人物、筑豊炭田の石炭を運び出す一介の人夫からのしあがった立志伝中の人でもあるが、山口組の鼻祖でもある。
おもしろいことに、政界の黒幕といわれた杉山茂丸は子供時分、吉田磯吉を子分に従えて暴れまわっていたという。作家の夢野久作の父親が杉山茂丸になる。
この小説は、当時の生きざまを知るに適したものである。
ちなみに、火野葦平の甥がアフガニスタンで医療活動をしている中村哲医師である。
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