「男はつらいよ」第二作。第一作が思いもかけぬ好評で続編がつくられた。前作がほぼオリジナル・ストーリーだったのに対し、この第二作はテレビ版のマドンナの物語を元にしている。マドンナの佐藤オリエ、散歩先生の東野英治郎の出演は当時のテレビ版のファンには嬉しかったのでは? 寅の母親役はミヤコ蝶々に変わっているが、これがハマり役だったと思う。
「続・男はつらいよ」のマドンナ・夏子。シリーズの中で数少ない「寅ちゃん」と呼ぶマドンナ(他には第一作の冬子さん=光本幸子、第十作の千代さん=八千草薫くらいしか思いつかない)。初期ということもあり、寅さんの幼馴染に近い人たちだが、それ故寅さんとの心の近さを感じる。寅さんの思いは届かなかったが、これほど親身になって寅さんの心配をしてくれたマドンナも少ないと思う。 散歩先生(東野英治郎)も、父親を亡くしている(おいちゃん、おばちゃんはいるが)寅さんに父親のような慈愛を注ぐ。 マドンナ・散歩先生との愛情豊かな交流は、全48作の中でも特筆されるものだと思う。
そしてこの作品では、親子の愛情にスポットがあてられている。 寅さん−母親(お菊さん)、マドンナ−父親(散歩先生)。対照的ともいえる、まったく別の親子が相互に絡まることにより、その心のつながりと別れの描写が印象的になる。 瞼の母に再会し一度は幻滅して意気消沈、ラストで絆を取り戻した寅さんと、父親との別れの悲しさを経験するマドンナ。散歩先生の死は寅さんにとっても悲しいが、寅さんとお菊さんとの邂逅は、マドンナにとっても、そして観ている観客にとっても嬉しいシーンだったに違いない、と思う。
まずは連続テレビドラマ―『テレビドラマ版「男はつらいよ」』としてDVD化―で世に出た“寅さん”が、その衝撃的な最終回への反響の大きさから、生まれ変わって(?)スクリーンへと進出した、その第1作がこれ。
博とさくらの恋愛〜結婚をひとつの軸としつつ、基本的な“寅さん”の行動パターンは、既にほぼ確立されている。
いや、それにしてもここでの“寅さん”、ホントに若くてイキがいい。
おまけにワイルドで規格外。そこがちょっと危険な感じでもあり、魅力でもある。
観ている自分とは違う世界で生きているけど、自分とどこか、似たところがあるような、そんな“寅さん”。
かつて「お正月には《寅さん》を観ないと、年を越した気がしない」、なんてことを思っていた日本人がいっぱいいたわけだけど、それはみんな、“寅さん”のいる世界にあこがれを抱いていたってことなんだろうな、てなことを思ったり。
新たにリマスターされたという映像は、クリアすぎることなく、映画館で観た時の“あの感じ”が再現されており、ほどよく綺麗で満足の行く仕上がり。
日本語・英語の字幕に加え、耳で楽しむ方のための音声ガイドも搭載。
映像特典として予告編のほか、ちょっとしたおまけ映像も収録。
お正月に限らず、いつ観ても楽しめる傑作です。
付記:『男はつらいよ 寅さんDVDマガジン 2011年 1/18号』―独自の映像特典を収録―でも、この第1作を楽しめます。
かっこいい表紙と、スパイダーウーマンというタイトルに惹かれて読んでみました。
クモの巣ならぬ、人と人とのネットワークをうまく活かしながら大切にしながら、自分の活躍の場を築いている賢い女性たち。ホントに賢いというか、自由というか、躍動的です。
20人の賢女たちの中には、以前からファンだった和田裕美さんも紹介されていて、興味深く読みました。個人的には、和田さんの雰囲気が好きです。
そのほかの方々はこのたび初めて知りましたが、印象的な方々が多いです。書画家の麗清さんの紹介部分は、個人的に書道が好きなので、興味深かった。
20人ものいろんな分野の賢い女性たちが紹介されているので、自分が共感できる人は見つかるのではないかと思います。
今回の『続・男はつらいよ』は全体的に悲しく淋しい物語になっていると思う。
もちろん軽いズッコケの場面は何度もあるが、腹の底から込み上げてくる、可笑しくて可笑しくてたまらないといったシーンはなく、笑いの要素もいくぶん控えめに感じられた。
この作品には人生の四苦、生、老、病、死がすべて描かれている。つまり、本当に「(男は)つらい」話なのだ。寅次郎の逮捕に始まり、産みの母との対面、恩師との別れ、そして極め付けの失恋、傷心の寅次郎に追い討ちをかける出来事がいくつも重なる。江戸川で鰻を釣るエピソードも、無常観を際立たせる上で非常に効果的だった。
無骨だが人情味を感じさせるラストシーンに多少“救い”はあるが、やはり“はかない夢の成れの果て”といった感は拭いきれない。
観終わった後、男泣きの寅さんが最も印象に残る作品であった。
重度の認知症となった老婆、タツは、時々、少女に返ってしまう。女であろうとする老姑に、嫌悪を感じてしまう嫁。また、タツの息子・依志男は、老いた母の裸体を見てしまった苦痛によって、若い女の肌を見ても、自然な情欲を呼び覚ませなくなる。
大学生の孫は、「人間もああなっちゃ、動物と同じだ。どこか施設に隔離するべきだ」と冷たく言い放つ。その言葉にショックを受ける、彼の両親である中年夫婦もまた、実は心の何処かで同じ事を考えていて、しかしそれを自分に対しても他人に対しても認める事が出来ないから、余計に苦しみ、さらには老親への憎悪さえ芽生えてしまう。老親への憎悪、それは自らの偽善に対する怒りと、区別できない感情でもある。
‘老い’は、自分とは別世界の出来事として眺めていられるうちは、優しく見守る事も出来るが、何かのきっかけでそれが、自分自身の人生の内へ、未来の内へと侵入してくると、人はそれに対して、より具体的に、憎悪という感情を抱いてしまう。そうした心の微妙な綾が、殆ど恐怖映画と言えるほどの、鬼気迫る演出で描かれている。
「‘人間’の約束」とは、最後まで‘動物’としてではなく‘人’として生きる為に交わされる約束。しかし人であるが故に、果たす事の出来ない約束でもある。果たせなかった全ての約束は、社会からも現実からも別れた、幸福な回想と夢との溶け合う非現実の世界の中でだけ実を結ぶ。揺らめく水鏡に映る、歪んだ自分の顔への恐れは、自身が水に溶けてしまう事で、救われる。タツの夫、亮作の失禁と、依志男が水を吐く場面は、そうした水の象徴性とも関わっていたように感じた。
一見、地味な社会派ドラマのように見えるが、その本質は、‘老い’と‘性’の相克を通して‘愛’の主題を抉りだした、人間の極限の姿を描いた作品だろう。
|