「直感で蒲田に住むことにした」で始まる、独身女性の日常。この一文からしてそうなのだが、この小説には、ステレオタイプな男女像や男女関係は一切出て来ない。例えば「TVタックル」あたりで闘わされるジェンダー論みたいなものが不毛に思えるくらい“進んだ”(しかも進んでいることに力が入っていない)男女像、男女関係が描かれている。登場人物はEDの都議、鬱病のヤクザ、イクことを拒む痴漢、選挙のボラバイトに精を出す40過ぎの居候、そしてこうした男たちと付かず離れずの主人公。文章中にもあるが、彼らと彼女の関係は決して“夫婦にも恋人にも見えない”のだ。そして、こうした“ずれてる”関係に、現代人は癒される。主人公が鬱病のヤクザやイクことを拒む痴漢と知り合ったのはインターネット。ネットの発達はこうしたステレオタイプではない男女関係、人間関係を創造していくのだな、と読んでいて思った。ただ、この小説世界は現実をトレースしている訳ではなく、人々はまだまだ固定した人間関係に囚われている。この小説に「プラセボ(偽薬)」という章があるが、まさにそれはこの小説のことであって、ニセモノだと知らないで服用すると癒された気になるが、あとで真実を聞かされると、効いたかどうかがあやふやに思えてくる、そんな感じなのである。小説の中で主人公は「プラセボ(偽薬)」の効用を説いているが、まさに僕もその通りだと思う。この小説を読むととても気分が楽になるのだ、それがプラセボであったとしても。
あー、満足。待ったかいがありました。
徹底した技巧。軽やかな文体は選びぬいた言葉だけで構成され、心血を注いだあとがうかがえます。何度も読み返しています。どこからどう見ても、傑作です。
この作品だけじゃないけど、トンネルをいったん抜けたようなラストの迎え方は、すがすがしく、優しい。だけどその後だって平面上で生きていくんだ。
この人の作品、優しい優しいといったレビューが多い。
ため息とか、意味不明のかたくなさとか、ふと思い出すだけの過去とか、小さな揺らぎを切り捨てずに、かつ必要最低限の言葉で緻密に描写する手法で、変化や成長、変化のなさや成長のなさに他の小説家にはないリアリティを出しているように思います。その方法で、誰かのあとがきのまんまだけど、相変わらず、孤独な人間が、というか人間な孤独が、どうやって現代で祝福されうるのか、というテーマを追っている。
みんな知りたいんだと思う、それがどう可能なのか。で、希望は見え隠れするけれど、そんなこととは関係ないようにしっかりと現実が見えている。ひとりきりでも、もどかしさややるせなさを、誰かとあなたが同じように見ている。それが「優しい」んだろうなーと思う。あ、ちゃんと言えてないなこれ。うはは、逃げた。
まあこの人は別に祝福とか大仰なこと意識してなさそうなんだけどね。
「ばかもの」も楽しみだけど、しばらくはパラパラめくって余韻に浸りたいな、と。
元ヒモにして元金貸し、そして元農業経済学専攻でパリ大学留学、元放火犯、性的アブノーマル(パートナーに対してだけみたいだけど)、意味や理由が大嫌い、布フェチ、美術館が好き、住所不定、家族とは音信不通、その日暮らしのように地方都市を転々としている、、、。そんなうさんくさいクズ男が口から出まかせに語ったような小説です。
それが小気味いいテンポで、どきっとするような人間への洞察、そっけなくも的確(と思える)情景描写が適当に散りばめられ、早く読むのがもったいないのにぽんぽん読んでしまう。あっという間の流れ星のよう。
おもしろかった。十代のころにこの小説に出会っていたら文句なく人生の一冊になっていたでしょうね。こんなクズみたいな生き方がしたいって。
読ませる文体に最後まで惹き付けられた。独特の空気感も楽しんだ。
だけどなんとなく釈然としない。
ヒデも額子も、それぞれアル中や事故を経て最初の結婚が破綻するのだが、
彼らの最初の妻や夫は「途中の人」として行き過ぎていく。
日常から浮いているが存在感のあるヒデと額子に比べて、
よき社会人を代表する前妻・夫は書き割りのようにペラペラだ。
だからなぜ「途中の人」とうまくいかず、最後にこの2人なのか、腑に落ちない。
現実もそんなものだ、と言われればそうなのかもしれないが。
日本の誇るべき執筆女性陣。
有名人の一覧ということもできる。
本当に生き方として感動できる人がいるだろうか。
実際には努力や、真剣さで勉強になる人がいるはずだ。
生き方がお洒落な人もいるはずだ。
編集者の方針はどうなのだろう。
執筆者のどこが本当に輝いているかの視点が今一歩なのかもしれない。
せっかくの有名人の能力が発揮されていないか,貴重な経験が記述されていないのではないかと思った。
これは男性視点なのだろうか。
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