「dead man walking」とは死刑囚が処刑場へと向かうことを指している。数人の看守に身体を抑えつけられながら、死刑囚は自分を待ち受ける”死”へ向かって歩いてゆく。
ショーン・ペンが死刑囚を、そしてスーザン・サランドンが彼の死まで付き添う聖職者を演じている。死刑囚は無罪を主張し続け彼女に助けを求めたが、優秀な弁護団など到底雇うことのできない貧しさのために、裁判では常に不利な判決を受けてしまう。彼が本当に罪を犯したのか、それとも無実なのかは映画の終わりになるまでわからない。だが、彼は最後に全てを話し、そこで物語が終わる。
物語の核となるのは若いカップルが森の中で殺害された時点にまで遡る。息子、娘を殺された被害者の家族たちは終始、暗く、死刑囚が殺されることを心から願っている。一方で死刑囚はといえば、無罪を主張しているわけだから、当然互いの主張は反発し合うばかりで、妥協点を見出すことはない。これらの二つの立場を、聖職者の視点から観客は見ることになる。どちらか片方だけに偏ることはなく、作品では常に中立が保たれる。
世界には解決できない問題もあるのかもしれないと考えさせられました。時間によって事件が風化する意外に、決着の着きようがない問題もあるのではないか、と。民族の歴史、宗教の対立、そして死刑制度の賛否についても・・・
難しいテーマを取り上げた作品ですが、誰にでも共感する部分はあるでしょう。ただ感傷的に観客の感情に訴えて終わりはしません。現実を描き、しっかりと最後まで撮りきっています。人によって感じ方は様々だとは思いますが、きっと、観て良かったと感じるのではないでしょうか。
究極(永遠)の自由の拘束、それが死刑だ。
ほかのレビュアーは死刑囚とシスターの演技が秀逸だとの評価が高く娯楽作品として観ているようだが、筆者はそうは思わなかった。
ストーリー上で裁判実務においての真実の究明がなされておらずあまり強調されてはいないが、回想シーンでは何回も出てきた。死刑囚は処刑直前に一人しか殺害していないと真実を述べるがこれが死刑相当となるのだろうか?共犯者は終身刑だというのにである。このこともまたストーリー上では回想以外で知る術は無い。
死刑である理由がストーリー上ではまるで証明されていないにも拘らず、死刑になってしまう。量刑判断(真実の認定)が間違っているにも関わらず、市民感情論で死刑にされてしまうのだ。これはかなりの大問題である。
死刑という制度(量刑判断)そのものが被告人の利益をまるで無視していることはあきらかだ。以上の内容をまともにストーリーに仕立てたとしたら映画としてまた死刑制度を廃止する側からは非難囂々だろう。だから裁判過程においての詳細は敢えて明らかにしないのだろう。ストーリーの裏を観ればこの映画は究極の死刑廃止論であるといえる。なぜなら処刑されてしまえば取り返しがつかいないのだから。
日本語吹き替えなしは残念。
作品は☆5つ
画像は綺麗で音質も文句ないだけに残念です。
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