村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」に小島信夫の「馬」が取上げられていたので、探していてこの文庫本にたどりついた。
8編の初期の短編が収録されているが、芥川賞受賞の「アメリカン・スクール」を始め、登場人物の行動・心理描写に思わず笑ってしまった。作品内容は決して笑えるものではないのだが。なんとなくマチスの絵を思い出してしまった。
オハイオのある田舎町に暮らす老若男女の22の物語が、地元で新聞記者をしているジョージ・ウィラードという青年の存在を媒介にして、ゆるやかにつながっている。(ただし、ジョージ・ウィラードは決してこの小説の語り手ではなく、彼もまた語り手に俯瞰される人間の一人である。)
それぞれの物語の主人公たちは、語り手の鋭い描写力により、そのキャラクターを鮮やかに読者の前にあらわすが、読者が彼等のことを理解しきった!と思えることはないであろう。
最終章で、ジョージ・ウィラードの町からの旅立ちが描かれており、一瞬、青春小説のたぐいだったのかと思わされそうになるが、ジョージを見送る駅員についての描写などを読む限り、やはり青春小説ではないなと思わされる。ジョージが旅立ったあとに目にするだろう世界や人々の物語は、その前の章ですでに語りつくされているような・・・。
このような小説なので、さっぱり爽快な読後感を求める向きには歯がゆいものになるであろうが、これがどうしてなかなか味わい深い作品であるのは間違いない。
未婚の女性や禁欲的な生活を送っている方、あるいは何か重荷を背負わされて前に進めないと思っている方にとくにおすすめしたい。
霊的存在を死者と見立てる場合、二類型になってしまう、と思った。
一つは、花が咲く/枯れる、提灯の火が点く/消えるなどということとシンクロして現象としてははっきりとその神秘さが感じられ理解されるのに、それがはっきりと死者の人格を保っているわけではないということである。
もう一つは、人格的個性ははっきりとしているのに、名前が出てこない、在る事、存在することは判っているのに、それがどのようなものでどのように在るか、を説明し言葉にしようとするとなかなかできずに、そういう者としてしか表現できないということだ。
これは、霊的存在が実際、死者ではないということを示しているのかもしれない。が、勿論、死者との距離がそういうものでしかないというだけのことかもしれない。
こういう短編集を編むということは、普通の書籍にはない編者の才覚から蒐集力までが存分に発揮されることから、著者とは別に編者が前面に出て来ざるを得ないことも本企画を面白くしている点の一つであろう。
小島信夫あっての森敦、森敦あっての小島信夫、実生活上は同性愛的な関係ではありませんが、文学上は両者の融和するエロスというかほのめかしというか、コミュニケーションの本質が端々に浮かんでは消え、消えては浮かび、沈着する名著、名対談集です。
これは木村俊介さんの著作で知りましたが、生前の埴谷雄高さんのことは幾多の作家、詩人、生活者が慕ったといいます。同じような匂いが森敦さんにもする。少なくとも小島さんと森さんの関係にはその匂いが濃厚にします。
たとえば、そういったことがわかる名対談集です。もちろん、それだけではなく、両者の芸の深淵を垣間見せてくれる1冊です。森さんはどちらかといえば「月山」のごとく語るようでいて語らないで、語る。小島さんは「アメリカン・スクール」「馬」のごとく迷い、語り、語ると見せかけて姿を変え、目をくらまし、容易には掴ませない。それでいて読み終えた後には濃厚なものが残る。
月山を登った帰りに鶴岡市内の書店で買って、読みながら帰りました。在来線の中で読んだのですが、読み終え、地元の駅に着いたときには、山に登った後よりも疲労困憊していました。それくらい濃厚な1冊です。ほめています。
講談社文芸文庫は少し高いので,心配な人は新潮文庫のアメリカンスクールを味見して下さい.村上春樹も紹介しているように,新潮文庫の中の「馬」という短編が,この本の下敷にあるようです.「馬」や「アメリカンスクール」を読んで面白いと思ったら,是非この「抱擁家族」を読まれることをお薦めします.個々の文体は平易で軽いというか,不思議な感覚です.歌で言うと一般の人とちょっとはずれたキーなんだけどはずしてない,という感じでしょうか.しかし,全体の構成はハードというか,読後はずっしりしたものを感じます.さっと読めるんだけど,結構残ると言うか,とにかく読んで下さい. 僕も何年か前に家を手に入れましたが,その中身の家族はどうなのか,どうしたいのか,そんなことを考えながら読みました.
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