星野智幸作品を読んだのは初めてである。装丁と題名に惹かれて手にとった。
家族の中の「父親」の存在意義を植物に託して問うているところは評価できるが、いまどき特に目新しいテーマではない。
ある講演会で父親ってのはオプションだと語った男がいたが、それに大いに共感した者としては、主人公は「人工の更地に生えたススキ」のまま終わってほしかった。
そうしてこそ、この本を読んだ男性諸氏に与えるインパクトは強いと思うからだ。
ただ、文章には大いに魅力を感じたので、ほかの作品も読んでみたい。
余談、「これこれスギノコ起きなさい」って軍歌だったのか。知りたくなかったかも。
3つの中編小説の1つが「サッカー小説」=「ファンタジスタ」。他2編のうち1つは芥川賞候補作である。
どの作品にも幻想的と呼ぶにはやや泥臭い、というかややチープな、それでいて独特の雰囲気はしっかりもった〈ホシノワールド〉が存在している。
「ファンタジスタ」は近未来というよりはむしろパラレルワールドに同時並行的に存在する〈もう一つのニッポン〉の数年後の姿のよう。
「大統領」に立候補したサッカー界の大物。階層化が進み隊列が長くなる社会。
「国際化」に埋没していく大多数の中下層〈ニホンジン〉。フットボールと呼ばれるようになった〈ニホンのサッカー〉。主人公の恋人?が愛用する異様な「抱き枕」。
キーワードとして使われているボールリフティング。
リアリティーがあるようなないような。幻想的であるようなないような。
そこに〈サッカーの真実〉はあったか?〈人生の真実〉はあったか?
〈閉塞感〉だけはあった。
「現代社会を覆う閉塞感」などとこの作品世界の〈閉塞感〉を対置させるのはあまりに陳腐に過ぎよう。〈閉塞感〉はそのものとして受け入れよう。
そのうえで、その〈閉塞感〉を突き抜けた向こうにある〈ナニモノか〉の存在を本書のなかに感得できたか?僕は感じることができなかった。存在の暗示すらも。
閉塞され、その向こう側に待つ〈ナニモノか〉を感じ取れない世界。それもまた〈サッカーの真実〉なのか。
わたしはだいたい「消失」を扱ったものに弱いのです。小川洋子さんの「密やかな結晶」にしても三崎亜紀さんの「失われた町」にしても、ものや人が「消える」のである。そして、そのことに関する記憶や記録も一切書き換えられていて、失ったことにすら気づかなくなる切なさにぐっとくるのです。
このトロンプルイユ〜に関してはすごく現実的なところで実は「消失」や「書き換え」が行われていることに戦慄さえ覚える。我々の実世界で起こっているとしてもなんら証明しようが無いからだ。そしてその怖さを余すところなく伝えている作者の筆力に感心するばかりである。
比喩を一切使わない硬質な文体、地震による不安な感じ、だんだんと変容を遂げる「現実」、すべて計算され尽くしたような無駄のない描写、すばらしいです。
さらに、ミントの缶の色合いの鮮やかさ、立体化する天の川の描写、どれをとってもわたしの好みにストライクでした。
さらに読み返してみると、サトミにとっての「誰か」は久坂さんのようであり、久坂さんの「誰か」は遠野さんのようなのです。実は久坂さんと遠野さんは裏表の関係で、これこそトロンプルイユ(だまし絵)ではないかと深読みさせてくれるのです。
普段小説を読まない生活を送っているが、中島岳志氏の書評(朝日新聞「承認されたい個/全体への融解」)に導かれ、読了した。
現代社会に生きる自己の不安を超えた存在自体の危うさへの恐れが、物語の中の「俺」を「俺俺」を走らせる。
小説中の個々の舞台設定は単なる借り物であり、作家の仕掛けにより読者が出会うのは、読者の内部に存在する「俺俺」である。
読む者にとって、読了一度目は苦しさが先行するが、読了二度目には再生への希望の物語として側面がより浮かび上がってくるものと思われる。
無心に二人でサッカーボールを蹴り合った日々があった。かつて親友
だった虹子と黒衣。20年ぶりに二人は会うことにしたのが・・・。
二人の間に言葉はいらなかった。ただボールを蹴っていれば気持ちが
通じ合った。だが、その関係も終わりを告げる。それは成長のあかし
なのか?それともお互い、見つめる方向が違ってきたからなのか?
私にも似たような経験がある。生涯親友とまで思って友と、いつの
間にか離れてしまっていた。二人の物語を読んでいて、無性にその
友達に会いたくなった。昔のようにはなれないけれど、自然に笑って
話ができるような気がする。全体的に難解な物語だった。だが、
作者の思いをしっかりと感じた。
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