同志社の創始者、新島襄自身の言葉、手紙をかりて自伝風の読み物になっています。新島襄の名前はしっていても、どんな人生だったまで知っている人は、同志社大学関係者でもすくないのではないのでしょうか? この本をよめば、運命を自分で切り開いていった近代日本のトップランナー新島襄の姿をいきいきと感じることができると思います。 こういった本を、丹念に年月をかけて編集出版にこぎつけた同志社関係者の熱意には脱帽です。
96通が収録された『新島襄の手紙』を読むと、一編の研究論文も一冊の著作も残さなかった、学者でも政治家でもない人物像がはっきりと理解できる。実にこの人は自由を尊ぶ信仰者、後進若人の育成を実践した教育者であったのだと。新島の本分はまさにそこにあった。
悲憤慷慨するだけであったなら、幕末に維新回天に際し非業に倒れたかも知れない。だが、若い情熱に突き動かされながらも理知的部分を失わなかった新島七五三太敬幹(のちの新島襄)は、悪く言えば「家出」、良く言えば「海外飛躍」を実現した。
「進め進め好男児、決して退歩の策をなす勿れ。諸君よ、今日我が日本の改良は、襄諸君に望むにあらずして将(はた)何人にかこれを望まん。」初期同志社の卒業生に贈る言葉には誠に熱いものがある。武士必修の漢学の素養では、洋風スタイルを通した新島は志士たちと共通していた。
学生を大切にした新島の激励の言葉。「仰ぎ願わくば、ますます千里の志を養い、我が邦家を救うの大計を立て賜え。富貴功名なにものぞ。願うところは、ひとえにこの民を救い、この民を導き、一日も早く真の文化の域に達し、ゴールデンエージ(黄金時代)の極点に至らしめん事なり。」
大学設立計画に東奔西走した新島襄には、病のために残された時間が足りなかった。だが、それも覚悟の上のことだった。「すでに乗り出しし船、如何なる風波襲い来るも、再び帰港すべからず。大風も吹くべし。怒濤も起こるべし。ただ小生は彼岸に達する事を知るのみ。半途にして沈没するも、小生の恐るるところにあらず。」
病躯を顧みず今生の闘いに果敢に挑んだ新島襄、彼もまた明治期に生き残った一人の志士だったに違いない。
我が母校の創始者が、どんな生き方をして、また、どんな思いで同志社を設立したか、良くわかりました。
幕末・維新は、日本人を熱くする。今が、ダメな時代だから余計にそう感じるかもしれない。おそらく、好景気の時代だったら、あまり注目されまい。
あの時代も、「今のままじゃダメだ」と思った人々が、何かをつかもうと、西洋の文明に目を向けた。技術や制度ばかりが注目されるが、実はその根幹にある「聖書」に目を向けた人々もいた。洗礼を受けなかったにしても、勝海舟や福沢諭吉、大隈重信など、明治の蒼々たる偉人たちが、聖書や宣教師に濃密に接していたことが、この本を通してわかる。
それまでの価値観が、ぐらぐらと揺らぎ、頼りにならなくなったときこそ、確固たる信念を持っている者だけが、時代を切り開き、新たな時代を築くことができる。今の国家の中枢にそんな信念を感じさせる者など見えないから、日本はもっと落ちていくだろう。
時代に翻弄されない生き方をした「聖書を読んだサムライたち」は、この暗い時代にあって、精神的な意味でしっかり立つにはどうしたらいいのかを教えてくれる。
新渡戸先生の修養と自警録に出会うきっかけとなりました。非常に感謝しています。
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