―生真面な性格故に、挫折もまた身に応えてしまう―そんな主人公の姿が等身大で描かれています。文学で身を立てたいと思いながらも、家計を支えるために教鞭を振るう清三。前半で描かれる希望に満ちた清三と、瑞々し描かれる田園風景とは対照的に後半は、清三も風景も陰りを帯びてきます。燐とした静謐さの中にも、仄かに燻る焦燥感が美しくもあり切なくもあります。哀しい結末なのが残念
「蒲団の打ち直し」の時雄と美穂が、何故か似ても似つかないのに、ほぼ団塊世代の両親のように思えてならなかった…。笑。
この小説みたいに、田山花袋の「蒲団」が書かれた時代と今の時代って、価値観が急激に変わっているまっただ中にいるという点で、意外とシンクロしているのかもしれない。
表紙にはみるみる書ける小説入門!とある。確かに、キャラクター小説の書き方が丁寧にわかりやすく説明されていく。文章術ではない。ストーリー展開、キャラクターの作り方に重点が置かれている。 キャラクターについては、手塚治虫の「記号論」に触れ、「ハリウッド脚本術」という名参考書を紹介しながら、パターン(基本型、性格付、演技形態)を組み合わせることで、「個性」的なキャラクターの創造は可能だと強調する。 ストーリーについては、各場面を書いたカードとプロット(400-800字)による編集術の方法を紹介している。小説をおもしろくするには法則があり、民話や昔話をたくさん読むことで勉強できると説く。「千と千尋の神隠し」を例として使い、昔話のエッセンスがどのように活かされてい??か解読してくれる。 この辺までは、ノウハウ本としての顔が全面に出ていて、この本の通りにやってみようかなという気になり、小説家への道も案外たやすいのではと甘い期待で胸が膨らむ。 しかし、問題はここからだ。明治時代以降の日本文学史にあまりにも大きな地位を占めてきた「私小説」と対比しながら、キャラクター小説の意義と可能性が語られる。 「キャラクター小説の本質は、キャラクターにある。作中のキャラクターが「世界」をどのように「観」て、受け止めるかということが、キャラクター作りにおいて不可欠であり・・」 「手塚に始まる戦後まんがは「記号的」で「平面的」な主人公でありながら生身の人間のように傷つき死んでいくキャラクターを創りだすことになった」 「作者や読者の「現塊??」や「私」に届く作品を描くジャンルとしてキャラクター小説はあるべきだ」 キャラクター小説の方法をもって「文学」になれ!「私小説」の世界にひたって「現実」と向き合うことを忘れたこの国の文学をリセットしてしまえ!という著者の過激なメッセージはズシッと重い。 わが国の「私小説」に関する説明・分析については、ちょっとわかりにくかった。
明治の男が悶々と恋に苦しむ姿が、妙に純真でかわいい。 女が去った日、その女が使っていた布団を引出し、「性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。」のである。そして、「冷たい汚れた天鵞絨(ビロード)の襟に顔を埋めて泣いた。」のである。どうしようもない悶々とした思いを田山花袋が見事に表現している。ストーリーだけを追うと、滑稽なのだが、心理描写がとにかく見事である。 巻末の福田恒存の解説も素晴らしい。
自然主義文学の嚆矢として、文学史上に名高い一作。
このたび久々に読み返してみました。
平成に入って本作を読んだ自分としては、正直特に新鮮なものなど感じず、
今となってはただ古臭いだけの内容かと思っていました。
しかし私もこの小説の主人公にだんだん年齢が近づいて来て見ると、
彼の秘めたる思いが身につまされるように迫ってくるのもまた事実。
社会的な立場もあり、常に大人の男を演じる必要のある毎日、
そんな中で私にもまた、この主人公と同じような鬱屈した思いがないとは言い切れません。
本作における厳格な貞操観や悲壮さなどは今となっては滑稽なほどですが、
しかしその秘密を思い、嫉妬と焦燥とに懊悩するその姿は、いつの時代にもある人間の姿かと思います。
そしてその感情の量が多ければ多いほど、その思いを深く封じてしまわざるを得ないのもまた同じ。
あまりにも有名なラスト、今よりはるかに社会的道徳の喧しかった時代に、
臆することなく全てを曝け出してしまった花袋の思い切りは、やはり凄まじいと言わざるを得ません。
今読めば古臭さを感じるのも確かですが、このひとごとでない切迫感は否定できません。
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