色褪せることない面白さ。多分に通俗的なのですが、それでもなお惹きつける力がこの作品にはあります。どんどん応援したくなってしまいたくなる魅力ある主人公。最後は、うん。痛快! 最高! 水戸黄門のエンディングのようなすかっとした爽快な風が読後心の中を吹き抜けます。
上下巻を読了した。わくわくするような面白さで、一ページたりとも退屈させられることがなかった。
私も炭鉱町で育ったので、特に石炭に関わる情景には懐かしい思いがこみ上げて来た。
戦後ではあるが、私たちの町にも似たような働く男たちがいて、そしておそらく、規模は小さいながらも、似たような「喧嘩」もあっただろう。
それにしても、当時の男たち、女たちは、なんと生き生きと時代と立ち向かっていたことか。
すべてを時間が流し去って、今は私の故郷にその面影は残っていない。それは作品の舞台である若松でもそうかもしれない。
この作品は、かつて争いながらも真っ黒になって働いた男たちの記念碑でもある。
作者は読者を愉しませる精神に富んでいた。そして、その才能も十分に持っていたのだ。一級品のロマンを堪能した。
この作品の最大の面白さは主人公の金五郎とマンというふたりの人物の魅力に尽きると思う。
お互い自分の夢を持ちつつ信頼しあってまっすぐに生きているふたりの姿に、読んでいるこちらまで
元気になってくる。二人を取り巻く女彫り物師や港湾労働者たちも生き生きと描かれ、
彼ら魅力的な登場人物たちが暴力団との抗争などスリリングな事件で活躍する様は
勢いがあって小気味いい。読んでいくうちにどんどん話に引き込まれ、とまらなくなる。
著者の両親がモデルのようだが、痛快な物語だ。
葦平、泰次郎、泰淳、知二、順、宏、鱒二、道夫……、文士が、続々とアジアの戦場に出る。彼らは満州から中国、フィリピン、シンガポール、ビルマ、インド……、大東亜共栄圏のために積極的にしろ消極的にしろ陸海空で戦う。
そして著者は読者を道ずれに、にわか戦士となった文士のその足跡を、執拗に追う。追いながら、その抽象的な戦争体験ではなく具体的な戦場体験を疑似追体験しながら生々しく執拗にあぶりだす。戦争体験と戦場体験は天地ほども違う。
戦場は普通の市民を狂気に駆りたて、精神を錯乱させて地獄の亡者に変身させる。この世の修羅に全身を晒した彼らにとって、もはや理非曲直を冷静に判断することはできない。頭でっかちの歴史観は蒸発し、血と殺戮と動物的本能だけが彼の知情意を支配するのだ。
兵士相手の慰安婦たちの手摺れた肉体にはない村落の中国人女性の肉体を犯すことでおのれの肉体奥深く仕舞いこまれていた官能の火が消せなくなった文士がいる。中国兵を殺さざるを得なかった文士がいる。そして、それは、僕。それは、君。
中国女を強姦し、中国兵の捕虜を斬殺し、強盗、略奪、放火、傷害その他ありとあらゆる犯罪を意識的かつ無意識的に敢行する「皇軍」兵士と、その同伴者の立場に立たざるを得なかった文士たち。この陥穽を逃れるすべは当時もなかったし、これからもないだろう。
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
恐ろしい句だ。悲愴で真率の句だ。そして彼らは、この惨憺たる最下層の真実の場から再起して、彼らの戦後文学を築き上げていったのである。
私たちは、「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもよい。早く済さえすればよい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」、という井伏鱒二の言葉をもう一度呑みこむために、もう一度愚かな戦争を仕掛けて、もう一度さらに手痛い敗北を喫する必要があるのかもしれない。
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