この国を壊す者へ
文体がこれまでの佐藤優氏の著作とは異なる印象を持つ。それは文章一つ一つが言い切り型が多く、遠慮なくズバズバ相手を斬りつける感が強いからであろう。これまでの氏の文体は、事実を述べながらも、相手をグサリとやるのではなく、証拠をバラマキながら遠くからじわじわ締め上げて行くような文体であった。
この本の内容は週刊アサヒ芸能に「ニッポン有事!」と題して連載した文章であり、文中で氏も述べているが、「(内容を)できるだけ面白く書くようにつとめている」とのことだ。一定の読者層を想定して書いていると思うので、読みやすい内容となっている。
ただし、「事実を曲げたり、水準を落とすようなことはしていない」とのことなので、読んでいて気持ちが良い。一つずつの単元がテーマを持った読み切りとなっているので、どこからでも読める。
「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会
友人(であり大学の後輩)でもある西田亮介編著の本作は、敬愛する藤沢烈氏・イケダハヤト氏等、若手ネット論客達の小論文が収まっていて興味深い、というレベルを優に超えた示唆を、読み手に与えるものである。
おそらくそれは私自身が彼らと問題意識を一にする同世代である、というだけでなく、彼らと同じ敵と闘ってきたからであろう。どういうことか。
著者の一人、元マッキンゼーコンサルタントの藤沢烈氏は第6章「“3・11”にオープンガバメントはどう動いたか」の冒頭にこのように語る。
「震災を機に、私は政府の非常勤職員となった。政府内にはモニターがいくつも並んでいて、さまざまな場所からひっきりなしに電話がかかってくる。そこはあらゆる情報が集まり、職員や関係閣僚、議員たちはネット回線をつうじて即座の重要な意思決定を行なっている/そんな光景を、私は想像していた。しかし/そうした場は実際には存在しない。簡素なオフィスと旧型のパソコンで作業がなされ、古めかしい会議室でゆっくりと会議が進行する。これが、日本の被災地支援の中心地だった。」
大げさな記述に思うかも知れない。しかしこれは私が2010年1月から6月まで政治的任用で内閣府の非常勤職員になった時に感じた驚きと全く同様のものだ。私は初めて出勤した時に、黒い紐でとめた出勤簿に判子を押さないと給料は払えない、と言われ大変驚き、ネットで遠隔のやり取りをするので給料は要りません、と言った。また、東大卒の高級官僚の方々が審議会の座席表の並べ方に何時間も使っているのを見て、めまいを覚えたこともある。
多くの人々は思っているに違いない。政府の中心には権力が集中し、卓越した処理能力があり、やろうと思えば何でもできる。ただ、性根が腐っているか怠惰なため、それがうまく稼動していない。まともな政治家や官僚が颯爽と登場すれば、こうした状態は瞬く間に打開され、これまでホコリをかぶっていた権力マシーンは正常に稼働する、と。しかし残念ながら、それは真実ではないのだ。政治家や官僚が敵なのではなく、政治システムや統治システムのそれ自身の不全こそが敵なのだ。
そのことに気づいた政治学者や一部のリベラルな政治家達は、これまで機能していた「政府=公共」体制を解体し、公共を自律分散化させ、機能不全の公共を再起動しようと試みた。それが「新しい公共」だ。「新しい公共」は政府だけでなく、企業やNPO、一般市民に至るまで、多くの主体が公共を担っていくモデルへの転換を促す。
民主党の重要な政策の基軸だったにも関わらず、鳩山政権が新しい公共を打ち出した際の国民の反応は大きくはなかった。当時新しい公共推進会議の事務局を、政府非常勤職員の立場から担っていた私は、国民に非常にわかりづらいテーマである「新しい公共」をメディアが素通りし、普天間や子ども手当などの突っ込みやすいところに政権批判の照準が合わされ、一斉掃射が打ち込まれるのを、指をくわえて見ざるを得なかった。
しかし思わぬところで「新しい公共」は現出した。東日本大震災であった。あの時多くの企業は果断に自らのサービスを被災地支援に振り向け、名も無き多くの市民たちは自らやれることを行おうと動いていった。被災者の方々に適切に寄付物資を届ける、アマゾン社の「ほしいものリスト」。行方不明者を探す「グーグル・パーソンファインダー</a>」。その他いくつものイノベーションが生まれたことを覚えている方は多いだろう。更に我々NPO業界も、本業をそっちのけで被災地支援事業の立ち上げに奔走した。政府が原発事故や大規模な救援活動を行う隙間に、様々な細かな支援が網の目のように広がっていった。おそらく政府だけで被災地支援が可能だった、という人は被災地に一歩でも足を踏み入れたことのある人であればいないはずである。
この「参加して引き受ける」体制を、有事だけでなく平時でもオールジャパンで構築できれば、日本を蝕む様々な社会問題に対して機動的かつ有効な手を打てるはずだ。そこに小さな、しかし私たちの努力によって生み出せる等身大の希望がほの見える。
こういうと、それは政治からの撤退ではないか、という反論を受けることがある。「もう政府は放っておいて、俺らでやろうぜ」ということではないか、と。それで年金問題や世代間格差等制度的諸問題を、解決しうるすべがあろうか、と。この反論には、実は一理ある。社会起業やソーシャルビジネスのコンセプトには、画一的で機動力のない、政治行政へのアンチテーゼが色濃く埋めこまれているからだ。しかし、個人的には政治から撤退せず、政治に関わりながらも、新しい公共によって、社会により濃厚に関わる、という「両立」は可能だと考える。
ではどうやって?その答えの一つが「オープンガバメント」である。「オープンガバメント」は定義もおそらくは確定はしていないが「これまで行政内でのみ使われていたデータを、二次利用可能な形で公開していくこと」くらいに思ってもらえれば良い。
詳細は本書に譲るが、具体例としては、アメリカの政府統計情報を利用した「Data.gov」や公共投資の使途や金額を追跡・可視化する「Recovery.gov」等がある。
これがどう影響を与えるのか。例えば、図書館蔵書情報を二次利用可能な形で外出しすることで、全国の図書館にどんな本があるのか、ということを分かりやすく検索できる「カーリル」という民間サービスが生まれる。
また、これは私の専門領域の保育に関しても、実は全国の待機児童データというのは、分かりやすい形で公開されてはいない。個別の各市に問い合わせれば、出してくれないこともないが、その形式はPDFだったりワードだったりして、マチマチだ。また、待機児童の区分も町ごとのところもあれば、ブロックごとのところもある。だから保育所を創ろうとする場合も、大雑把に待機児童が多いという情報に基づいて出園するという、およそビジネス業界では中々考えられない参入の仕方が一般的だ。しかし例えば、これを全国の基礎自治体が協力して同じCSV形式の同じフォーマットで公開したらどうだろうか。少し技術があるエンジニアならば、待機児童.orgというWEBサービスを立ち上げ、全国の待機児童数をリアルタイムに可視化することもできるだろうし、そのデータを使って、保育所運営企業用のマーケティングソフトを作ることだってできる。そうすれば、保育所参入を促し、マクロとしてはより効率的に待機児童解消が進んでいく事が可能になる。
更に、輪番停電の際には、政府が発表した輪番停電リストをもとに、自分の住所を入れたらいつ輪番停電が来るのかが分かる、といったWEBサービスがリリースされたことを覚えている人もいるだろう。(あの節は随分重宝した。)
データだけではない、審議会の議論も全てUstreamやYoutubeにアーカイブするようになれば、各領域の突端でどのような議論がかわされて政策決定されているのかが可視化されるし、また審議会参加者の評価がオープン化することで、審議会委員による自己利益誘導のディスインセンティブをつけ、政策の既得権益化を防ぐこともできよう。
(ちなみに未だに多くの政府審議会はリアルタイムには非公開。後で議事録は出るが、タイムラグが発生してしまう。)
このように、新たなITを用いて古い政治をこじ開けていき、破壊力のあるイノベーションを生み出す可能性を持つのが、オープンガバメントである。政治をこじ開け、そこで眠るデータや議論を料理してサービス化し、また政治に直接影響を与えていく。
夢物語に聞こえるだろうか。確かに現状で我が国の政治はオープンとは程遠い。311後のSPEEDIによる放射線量開示が全くスピーディーでなかったのは、ブラックユーモアというにはあまりに悲しい、今の日本を映し出す出来事だった。
しかし、311後だからこそ、我々は希望を語らねばならない、と私は思う。希望は容易に批判される。「現実的ではない」は万民が言える魔法の言葉だ。でも、だから何だ。希望かも知れない種を見つけ、実際にそれを土に埋め、水をかけない限り、芽は出ない。震災後の一瞬に見えた「新しい公共」。そして胎動するオープンガバメントと、その苗床から生まれるイノベーション。こうしたものに、私は水をかけていきたいと思う。
本書にも書かれている。ウォークマンを生んだ中核は、数千人従業員がいたソニーの中の、盛田昭夫と周囲の数人だけだった。そう、「変化とは常に、およそ組織とは呼べない数名の力で引き起こされる」のだ。
この本がその数名達に希望を与えんことを。
日本再占領 ―「消えた統治能力」と「第三の敗戦」―
なんとなく結論が予想できたのでそんなに触手が動かなかったのですが。やはり読んでみてよかったです。見開きの写真を見てください。映像は正直です。65年という時間の経過さえも消えてしまうほどの衝撃が迫ってきます。そして本文では恐るべき迫力で真実が浮き彫りにされます。現象面ではよく言われていた話ですが、本質は日米事務方の談合なのです。問題は事務方のレヴェルということです。ここには、長期的な戦略やコストや利害得失の計算や敵への真摯な尊敬もありません。
あるのは、お互いの官僚組織の私的な利益の推進でありグロテスクな馴れ合いなのです。日本側は外圧を利用しての私的な目的の追求であるため、必然的に相手側への実質的な内通とリークが主要な手段となります。相手の米国側はいわゆるジャパノロジストというアメリカでの日の目を見ない「少数派」です。したがっていつまでも日本が「特殊」な存在であり続け、日本語という「障壁」が存在しジャパノロジストたちの「存在意義」を維持させ続けなければいけないわけです。その挙句が、膨大な外貨準備と米国債の購入であり、消費税の増税と国債の格下げというわけですか。ジャーナリズムもこの構図への意図的な参加者なのです。
著者は日本の官僚組織の起源を律令制の制定にまで辿ります。そして徴税の驚くべきほどの自己目的化は不変です。ここまで来るともう橋本氏の「源氏物語」や「平家物語」のモティーフと重なっています。どうやってこの不純な関係から抜け出せるのか?長期的な戦略と利害調整こそが鍵と著者は力説します。再占領でこのアメリカの恐ろしさをもう一度味わい学ばなければいけないのです。でも日本の社会の近代化や民主化の徹底の先に未来があるとは思えないのです。
ウィキリークス以後の日本 自由報道協会(仮)とメディア革命 (光文社新書)
小沢会見で自由報道協会(仮)の存在を知り、設立の中心メンバーである上杉隆自身に興味を持ったので、読んでみました。
他の著書は読んでいませんが、本書を読めば、上杉氏の考えはおおよそつかめるのではないかと思います。そもそも、その主張自体はいたってシンプルなものです。
読んでいくと、端々から、今の日本のジャーナリズム(主に新聞をはじめとするマスコミ)へ対して上杉氏が抱いている強い危機感が感じ取れます。
欧米メディアに比べ閉鎖的であるということ、政府と結びついて情報統制をしているということ、そしてそういう問題の温床となっているのは「記者クラブ制度」であるということ。
そして本書の最後では、ウィキリークスの出現により、もはや情報を完全に管理することは不可能という前提になるだろうと予測しています。そして、私たち一人ひとりが多くの情報を得て、そこから自分で考え行動すべきだといっています。
この提言は、私たちみなに重くのしかかってくるものだと私は思います。
今、日本のジャーナリズムは変化し始めています。それは小さな動きかもしれませんが、確かなことです。
それに対して、私たちもなんらかの反応をしていかなければなりません。今よりもっともっと多面的な情報が手に入るようになる可能性があります。そうなれば、自分がどういう考え方をしていくか、その選択肢も増え、より深く考える必要が出てきます。例えば中東諸国のように、政府に強い不満感を持っている人が大多数という訳ではないこの国では、情報を手に入れ問題を見つけ考えるということを、自覚的に積極的に行わなければなりません。
ジャーナリズムの変化に対して、私たちはどう変わってゆくのでしょうか。
世界金融危機 彼らは「次」をどう読んでいるか? (双葉新書)
ソロス、バフェット、ロジャーズという、投資・投機の伝説のカリスマが世界経済の現況を、そして近未来をどう読んでいるか? これこそ、一般の人々が知りたいことである。一気に読破したが、確かに本書は3者の見解を明示してくれている。しかし、そのどれもが「認めたくない結論」に感じた(個人的見解だが)。現在の世界経済の病巣と、さらに恐慌を加速させそうな中国バブルの崩壊の行方、石油問題(イラン情勢こそが要)への言及もある。本書の導く回答は、端的に言うと「認めたくない」ものだ。しかし、一般受けするお為ごかし(思ったほどひどくはない、大丈夫…といった類の)が通用しない(あるいはそう主張することが不誠実極まりない)というむき出しの現実を突きつけられた気がした。(了)