新入社員は便器になっちゃいます。 パイパンは明らかに肌の色の違う人で、他は没個性的であった。 でもその明らかなギャルな人があんまり影が薄かったなあ。
ストーリーについては、既に紹介されているので、重要な登場人物の末永和哉に関連して少々。 彼は精神疾患を患っているためか、周りの僧が経験出来ない所まで禅の観が進んでしまい、それを取り巻く議論が(マーク・ロスコ風絵画論にも絡んでくるのですが)、いまひとつピンと来なかったのです。 先日たまたま ted.com で、Jill Bolte Taylorと言うハーバードの精神科研究者が自らの脳内出血に起因する、脳の左右が一時的に分離する脳機能障害の経験を(その後8年かけて回復)、あれは涅槃であったと、表現するのをみて、ひょっとして末永が観たのはこれに近い経験であったのではないかと思いました。このTaylor女史の話を聞いて読み直すと、少々長い下巻の議論が、リアリティを増して読めました。 高村薫の本は、10年ほど前に友達からお前と同じ大学だろうとレディージョーカーを貸してもらったのが最初です。3学年高村さんが上ですので知っているはずは無いのですが、その後新聞で高村さんの写真を見て、一瞬で思い出しました。人気のない、照明がまだ灯いていなく薄暗い学生会館の暖炉の傍に一人で座っていた三つあみ、緑のセーターの学生の強い視線が何故か網膜に焼き付いていました。
1ページに1語や2語、下手をすると10語近く、読めない又は意味が解らない単語が出てくる。
特にアートと仏教を延々語る章は本当に読み進めるのに時間がかかり、雄一郎さんに鼻で笑われそうだけど、手元にスマホを用意していちいち漢字や人名、絵も調べたりしてなんとかかんとか読了しました。おまけに3部作と知らず、まだ晴子情歌もリア王も読んでいなかったので最後は、嗚呼失敗したと思いながら、それでもページを捲りました。
もー、難しい!
でも途中で投げ出すのは嫌だ!
それの繰り返し。
きっと半分も理解できていなくて、でも読んだことで自分の中に何か溜っていけばいいな、というかきっと何か溜ったな。と思える本でありました。
検事の台詞がいちいち面白くて、そこだけはゲラゲラと笑える。
良い人も悪い人も出てこない。時折胸が熱くなる。よくわからない涙がちょろっと流れたりもする。
・・・感想を書くのも難しい。
最近の死刑論議は感情的な被害者側の立場から論じられることが多い。もちろんそれが悪いわけではないし、 長年、被害者の人権が無視され続けてきたことの反動とみれば当然の動きでもある。 こういった時代潮流の中で本書は被疑者の生い立ちを追い、環境を追い、精神疾患を追いながら、 再犯防止に向けた問題提議の姿勢を貫く。
犯罪の凶悪性が高ければ高いほど、それを見聞した人の思考は止まり、簡単に極刑を求めがちになる。 だが、そこで冷静に被疑者の存在に立ち返り、社会全体で事件を考えていこうとするジャーナリズムの存在を なにか久しぶりに見たような気がする。2人の筆者にジャーナリストの原点を見た。
それにしても死刑は難しい。医学の進歩により、10年前までは病名するついていなかった病も その存在や治療法が分かるにつれ、それらが解明されなかった時代に犯罪者なれば十分な説明がないまま 死刑にされてしまう恐れがある。 レビュー者は死刑賛成の立場であり本書読後もその立場に変わりはないが、死刑制度そのものに後味の悪さのような ものを感じるようになった。
高村薫さんの作品を初めて読んだ。 友人に勧められて、桜の季節に読み始めたのだが、これが大正解だった。 現実での桜の美しさとリンクしていく小説世界の美しさ。 一彰と李歐の、ストイックとも言える、官能的な関係。 夜の闇に舞う、李歐の美しさ・・・・。 これから毎年、桜が散る様を見ると、その下で舞う李歐の姿が脳裏に甦ることだろう。 そして、私を虜にしたのは、表現の美しさ。 硬質で重く、冷たい。まさに黒鋼のような描写のはずなのに、 信じられないくらい官能的なのは何故なのだろう。 そこかしこに脳みそを痺れさせるほど美しい描写が鏤められていて、 非常に贅沢な官能を味わえる。 だが、官能、といっても直接的な描写は一切存在しないのでここで断わっておく。 そういう期待をもって読む小説ではないので。
とにかく、描写の美しさが素晴らしい。これに尽きる。
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