私は、この方の文章と感性の独特な先鋭さがとても好き。
日経新聞の夕刊に掲載されていたエッセイもリアルタイムで読んだとき、
なかなか、他の人がはっきり言えない感覚、でも市井の感覚、でも独自なもの
を打ち出しておられて、関心していました。
この本は、週刊新潮の連載がかなりの部分を占めるけど、
一部、震災直後の時期の日経夕刊のエッセイも交えています。
今の時代をより深く考えるために、
どのような力をもってしても「奪われないもの」とは何かを
震災後の今考えるために
この本を読んでみてください。
追伸:深刻な話ばかりではなく、つい笑っちゃう話ももちろん多いです。
(作者のファンにはいわずもがなでしょうが)。
いや〜実に微妙。川上未映子さんが出演したのが分からないです。余りにテンションが低くて作品に入って行けない。最後は意味が分からなかったです。
特殊な性質、恋愛のことを書いている詞なのに独特で、 作曲もしている女性シンガーソングライター。 好き嫌いは人によって分かれるタイプかもしれないが、 ハマると逃げ出せない何かを持っている。
「したら罪悪感が芽生えるからか?じゃあなんで君には罪悪感がうまれて、僕には罪悪感がうまれない?どっちがまっとうなんだろう?」
この作品の百瀬というキャラクターはすこぶる格好いい。 他の方も書いているがそれこそ『カラマーゾフの兄弟』のイワンのような《理論こそ全て》といったような態度は「お前、絶対中学生じゃねえだろ」とツッコミをいれたくなること必至。だが、こんな風に世の中を達観している百瀬はおそらく《死》を常に傍らにあるものとして生きているのだろう。故に、体育に出れず、常に咳をしていて、体を激しく動かすようなことはできない。
「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」
本音かどうかは兎も角として、彼のこの思想は《ヘヴン》を信じるコジマの考え方と真っ向から対立する。 弱肉強食の原理で動いている社会で生き残るためには強くなければいけない。 そこに善悪の概念など必要ない、むしろ邪魔なものだ。 だから、強くなればいいんだよ、というのが百瀬の考え方。 しかし、コジマは弱肉強食の原理だからこそ、弱いものが絶対に生まれるシステムだからこそ、誰かの代わりに率先して自分が弱いものになることが現世での《試練》であり、それを乗り越えることで自分の大好きな絵のような人と人が完全に判り合い、愛し合える世界、《ヘヴン》に行けると考えている。
だから、同じ《試練》を乗り越える仲間であった“僕”が「斜視を治すことができる」という話をした時、悲嘆し非難する。 「わかっていたんじゃなかったんだね」と。
まぁ、それはそうだ。 コジマは実は金持ちの子どもであり、体を清潔にしさえすれば、身なりをきちんとしさえすれば、いつでも弱者から脱出することはできたのだから。 「あえて」弱者でいたコジマと「望まないのに」弱者でいた“僕”は決定的に違ったのだ。
僕の人生は「一万五千円」で変わることになる。
コジマとの絆、母との絆を立ち切って、目の前に広がる景色はただただ美しいものだった。 百瀬の言うとおり、世界は残酷で、“僕”もそのシステムに飲まれ、斜視を治し、学校をやめて、弱者ではない生活を送ることになるだろう。 罪悪感もなく。 故に、二度とコジマとも会わないし、会えない。
悲しいラストは、“僕”にとっては幸せなラストでもある。 それがまた、悲しいのだ。
本作は、近松門左衛門作「曽根崎心中」の翻案であり、ストーリーはそのままに、角田光代が 遊女 初の口を借りて 元禄の浮世に彼女が夢見た儚い数日を描いたもの。
原作を知る者も 知らない者も 遊郭の淡い灯りを思い描き 初の言葉に身を委ねてもらいたい。次第に その時代 そこにいた人々 を肌に感じ そして ほんのりと浮かぶだろう 初の儚い夢現に包まれていく。
これだけ世に知られた原作にネタばれもないだろうが、原作では明らかになる心中のきっかけの真相が 本作ではラストで逆に曖昧なものとなっていく。(このネタが分からぬ場合、読後にwikipediaを一読いただきたい) この違いは、事実を知らぬ初 事実を疑う初 という大きな違いとなるが、その違いを味わうなら、角田光代の描こうとしたものに、より近づけるのではないだろうか。
浄瑠璃とも歌舞伎とも違う より映像的な世界に翻案されながら その映像は 元禄の遊女から 現代の私達が確かに受け止められる言葉になっている〜終盤 二人が見た あかり それを感じながら。
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