全体的に大変おもしろかったです。
哲学シーンとビジュアル面でもう少し
変えた方がおもしろくなるのではという
感覚もありましたが、役者の力量と言い
買う価値はあります。
哲学シーンで気になったのは、潜在的
描写より、写実的説明が強く、自然ににじみ出る
素晴らしさと言うより、加工的面が見えた
のが少し残念でした。
文字を使った手法もモダンでおもしろいのですが、
すこし軽すぎるように見えました。
後は満点でおもしろかったです。
彼女のファンには申し訳ないがこの作品にあってないと思う。
じゃあ、ダレがいいんだよ?といわれても、私はその辺とんと疎いのでわからんのですがね。
この前TV見たの何ヶ月前だっけ?
こういう話なんで、もっと茫漠というかさびしげな感じがあってると思うですよ。
イラストは、がんばった、じゃないですかね。
はずしてはいないと思うですよ。
コレ以上を望むほうがムチャなだけですね。
この本は 久しぶりに 胸にズシリと来た。
登場人物たちのなんと 俺に似ていることか!
こういう問題意識で 筆を進めた筆者に対して 共感を越えて 親近感を持ちます。
漢文くずしで 読みにくいでしょうけれど 五十に近い方には 読んでもらいたいな………
正直今回は惰性で買ったんですけど、これは人に薦めたいと思えるCDだったのでレビューしようと思います。
シリアスな本編とギャグのおまけシナリオが上手く配合されていてとても楽しめました。
疲れずに聴けて良いです^^
本編は話が進むにつれどんどん引き込まれますし、何よりキャストの演技に聞き惚れました。
さすがベテラン揃いと言ってしまえばそこまでですけど、まさに迫真の演技!ってものを堪能出来るかと。
原作は高校の教科書に載っていたので読んだことはありますし内容もおおまかに覚えていましたが、
既に発売済みの同シリーズ同様、改めてこういう形で聴くとやっぱり新鮮です。
昔はよくわからなかった部分とか「ああ、こういうことだったのか」と納得したりも出来ますし。
何より原作を読み返したいと思ったのは山月記が初めてです。
そしておまけシナリオですが、こっちはとことん遊んでいます。
なので本編を引きずったまま聴くのではなく、あくまで登場人物が同じなだけの別物として聴いた方がいいかもしれません。
個人的には「逆転編」が非常に面白く感じました。何でそんな普通に馴染んでるの!?って。
『山月記』『李陵』など、中国の歴史や哲学を題材に作品を書いた中島敦。高校の教科書によく載っている『山月記』は、中国の官吏であった主人公が詩人としては不遇なため納得がいかず、その果てに虎になってしまうという話。中島敦は、自分の置かれた境遇に納得がいかず、ふと考えて疑問符(=?)を発してしまう悲しい癖をもつ主人公を登場させる。『弟子』では、論語で有名な孔子の弟子で、孔子を尊敬しつつも「???」と、納得がいかない子どものように駄々をこねる「子路」。また、西遊記を題材にした『悟浄出世』『悟浄歎異』では、河童の世界でも孫悟空と旅をしながらも「なぜ?」を発し続ける「悟浄」。主人公たちは安易なコトバで「救われる」のではなく、中島敦の温かいまなざしに見つめられている。「類は類を呼ぶ」というけれど、こういう生き方もあるんだと、私をホッとさせてくれる。
●「私」を不問にする=レトリックを使っていると意識させない「レトリック」
中島敦は孔子の門下の子路を主人公にした『弟子』のなかで、子路にこう語らせている。(夫子とは孔子のことである。)
「夫子は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁がうますぎると思う。これは警戒を要する。宰予などのうまさとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、うまさが目にたちすぎるゆえ、聴者に楽しみは与ええても、信頼は与ええない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢さの代わりに、絶対に人に疑いを抱かせぬ重厚さを備え、諧謔の代わりに、含蓄に富む比喩を有つその弁は、何人といえども逆らうことのできぬものだ。もちろん、夫子のいわれるところは九分九厘まで常に謬りなき真理だと思う。また夫子の行なわれるところは九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範とすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘 ── 絶対に人に信頼を起こさせる夫子の弁舌のなかの・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理とは必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられる惧れがある。警戒を要するのはここだ。」
ここで子路が警戒しているのは、客観的に見える文体に埋没されている「話し手の判断」である。文章上には話し手が登場することがなく、地の文の中にひそかに「私」が隠れている。この「私」を不問にするレトリック、レトリックを使っていると意識させない「地の文に話し手の主観を埋没させる手法」は上手に使えば「角が立たない」ので人間関係を円滑にするが、悪意を持って使えば「誰」が判断しているかを不問に付したままで大衆操作にだって使える。
「誰」が不問にさせているのかを問わないでいる、というのも生きる知恵だが、問いを発したり、混沌とした状況に「けり」をつける「メタ判断」する生き方もある。でも、その生き方を貫いて、子路みたいに最期は「膾(なます)」のように切り刻まれたり、プロメテウスのように人間界に火をもたらした罰として禿鷲に肝臓をついばまれたり、「プラトンの洞窟の比喩」に出てくる外界を見た人みたいに真実を告げて皆に理解されず打ち殺されたり、トロイの木馬の危険性を指摘したラオコーンみたいに海ヘビに咬まれて死んじゃうのは、ちょっといやだなぁ。 2003-1-5記す
|