9・11以降、伊藤計劃という稀有な作家の存在によって日本SF小説も変わったが、では、3・11ではどうなのか、という関心を持って読んでみた。7月に亡くなった小松左京の巻頭のメッセージは良かったが...
その小松左京を始めとして、26名のSF作家、評論家たちの文章が、現実に起きた津波による災害、そしてその後今でも継続している原発の事故の実態をとらえきれなかった小説の想像力のなさのエクスキューズになっているような気がする。
もちろん、そうではないという反論もあるし、真摯な反省ものってはいるが、失礼な言葉で言えば浮世離れしている気がする。被災地の人々や復旧にあたった人たちには、そう思われても仕方がない。
でも、そもそも「SF」というジャンルにそこまで要求すべきなのか、という点も疑問。「浮世離れ」で何が悪いのかって開き直るつもりはないけど、現実は常に人間の想像力、創造力を上回るのではないか。そして、その現実を踏まえて、さらに創造していくという繰り返しなのでは。
この災害を経験したSF作家たちが、さらに優れたSF小説を生み出してくれることを一SF小説ファンとしては期待してやまない。
矢吹駆シリーズ、今回のテーマは精神分析=ラカンです。ラカンはジャック・シャブロルという名前で出てきます。描写されるその風貌や思想の内容、経歴、家族構成まで本物とそっくりで、無理に偽名にしなくてもそのままラカンでいいじゃないかとさえ思ったくらいです。
全体的に非常に濃厚な内容で分量も多く、推理小説ファンにとって十分に満足できる内容だと思います。犯人探しやトリック暴きについては、少々複雑でペダンチックな印象を受けますが、それがそもそもこのシリーズの特徴ですので難点とは思いませんでした。
紹介されるラカン思想の解釈は、その批判の部分も含めて極めて穏当なもので、逆にいえばとりわけの卓見もありません。しかし精神分析的思考に吸血鬼的思考を対置し、さらにそれによって導き出される思想構造の全体に批判を加える、というアイデアには脱帽しました。
作品の雰囲気ですが、傑作「哲学者の密室」のようなスケール感こそありませんが、哀愁と憂鬱とに満ちた独特のムードにたっぷり酔えます。私はどこか懐かしい「昭和のパリ」にタイムスリップしたような、不思議な気分になりました。
一読して疑問に思ったことがあります。ふつうラカン思想のル・レエルは「現実界」と訳されています。しかし作中ではあえて「物質界」となっています。ここだけ変更することにさほどの意味は感じられません。まあそれはそれでいいのですが、カケルの台詞で定訳の「現実界」となっている箇所があり、統一がとれていません。また細かいことですが、792頁の「不穏」は「不安」の誤植ではないでしょうか。
うーん、読み終えるのに2カ月以上もかかってしまった。
もちろん、700頁近い大作だということもあるし、内容自体も自分にとっては難解なのもあるけど、とにかく文章が読みづらい。
彼の文章は昔から読んでたけど、こんなに理解できないなんて自分の読解力が落ちてるせいか。
久しぶりにこういう本を読んだので、刺激的だった。格差社会やテロの考察に関しては必ずしも賛成することばかりではないが、考えるきっかけにはなる。
これからは、もう少し難しい本を読もう。
タイトル通り、本格ものを期待して読んではだめです。本格ものを期待して読みすすめ、終盤のネタばらしの時に「頼むよ関口イィイイッッ!!」と心の中で叫んだ人は自分だけではないと思います(笑)。
ただこの独特の雰囲気、予想外の展開、物語を終盤に収束させる筆者のうまさはハマれば癖になります。最初は騙されたと思ってた自分も今では立派な京極作品のファンです。京極夏彦は有名だけどなんか分厚いし難しそうだし…とか思ってる人も一度読んでみてほしいです。これならほかの作品よりは(比較的)薄めですし、ハマれば次からは厚さなんて気になりません。
「三月は深き紅の淵を」と表と裏の関係にある一冊。 読了後、「三月は・・・」も再読しました。 両方読んでお互いの深さを味わえます。 北方の湿原の中にある陸の孤島にある学校。 この学校では「ここに三月以外に入ってくる者があれば、そいつがこの学校を破滅に導くだろう」という言い伝えがあった。 そこに二月の終りの日に転入生水野理瀬がやってきた。 不思議な風習と絶対的な権力を持つ校長。 行方不明になる生徒。 最後まで本の中の雰囲気に気圧されたままで独特の世界観が味わえます。 読了後に「三月は深き紅の淵を」 「殺人鬼の放課後ミステリ・アンソロジー2」の中の「水晶の夜、翡翠の朝」、 「図書室の海」、「黒と茶の幻想」と読み繋いでいって欲しい。
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