早川書房「想像力の文学」にて、記念すべき第1回配本となったのがこちら。とにかくナニと定義し難く、とにかく凄まじい馬力が漲り立つ怪作短編集。
無人の改札口を出ると、そこはもう一面の猿。どこかいびつな半月と、古い電柱に取り付けられた水銀灯の光に照らされてすべてが青白い。
という書き出しから始まる"猿駅(異形コレクション11初出)"は、その幻想的な情緒の欠片もかき消すほど夥しい数の猿が猿が猿が蠢き寄せるグロテスク。そこに一切の意味は読み取りがたく、まさしく理不尽なまでの不快の海に犯され浸される。これはダメな人は駄目だろうなーという、村の儀式の中で初恋の女の子が殺され解体されていくという"初恋"にしても、その夢幻的な情景と、無機物のように損壊させられていく肉体の描写が相まって、甘酸っぱく絶望的な喪失感を醸し出しており異様だ。滂沱の鼻血を流す男を描いた"遠き鼻血の果て"でもその異様さは止まらず、そこへ至る説明など一切行われない状況描写に、半ば憑かれたように引き込まれる。そしてここでもラストに至りようやく仄めかされる物語の背景が見えた瞬間、もはや狂い死にしそうな喪失感に苛まれることに。その最果てにココロが捻じ切れてしまったような哀切が迸る"雨"では現実という名の軸が狂おしく歪む。破壊的なドライブ感で紡がれる物語は、多くにおいて何か覗き込んではいかんような、底なしの穴を描き出す。笑いにも繋がりそうな異常なシチュエーションなのに、漂う不穏なベールのもと、ぎりぎりと追い詰められ壊れて男のココロが強烈なストレスとともに刻み込まれる"羊山羊"も凄かった。
一方で、佐藤哲也ばりのハイパーな理不尽小説の向きがある作品群もたいそう魅力的。ど田舎の奇祭に想をとった"ハイマール祭"は、爆笑と恐怖が表裏を成して荒れ狂い、すがるための藁すら見つけられぬ強烈な不快がカタチを成して襲い掛かる"げろめさん"も、その圧倒的なイヤさ加減にしかし眼が離せない興奮を覚える。
よく経歴として「吉本で脚本を書いていた」と紹介されている作者だが、例えば新喜劇のように「用意された」感のある笑いなどどこにもなく、むしろ滅裂とした爆走を続ける中で、気づけば強烈な感傷/不安/苦痛に苛まれている自分が居た、といった按配が強い。とにかくも、素晴らしき異能の作者であると思う。
内容的には、まあまあだが、タイトルと舞台設定がおもしろい。おそらく、兵庫県明石市の大久保町を舞台にした小説はこれが初めてで、最後だろうと思っていたら、全部で3部作あるらしいので、その3部作で最後らしい。明石出身の文豪?稲垣足穂もビックリするような傑作?だ。もちろん、私は明石出身ではないので、念のために書いておく。
ハヤカワのミッションスクールに近いです。
あれの、最もカオスな話をダークに振って、集めて短編集にした感じ。
田中哲弥好きでも好き嫌い分かれると思うけれども、
何も考えずに手を出せば失敗したと感じるかも。
また、田中哲弥の長編が読みたいな。
著者の7年ぶりの新刊。2001-06年に発表された5篇が収められている。 7年も沈黙せざるを得なかったのは、電撃の読者から見放されてしまったためらしい。2001年に発表した2篇が不評、04年に復活掲載した1篇も冷遇を受け、早川に移って何とか出版までこぎ着けたらしい。じゃあ、これから活躍を期待と行きたいところだが、どうだろう。私には、著者が方向性を間違えているような気がしてならない。ドタバタ、お約束、美少女、脈絡のないギャグなどが著者の持ち味なのだが、それだけで突っ走ってしまいストーリー性を放棄した結果、読者が置いてけぼりになっているように思う。簡単に言えば、わけのわからない話ばかりなのだ。 それでも、ある種の魅力があるのは確か。コアなファン向けの一冊だと思う。
一つだけ勘違いして欲しくないのは、仏教はケチになれとかいたずらに安いもの買えと言っている訳ではありません。 スマナサーラ長老は、以前ある作家との対談で「ベーシックインカムというより、ベーシックニーズです」と仰った。 ベーシックニーズとは、【先ずは、必要なものと欲しいものを区別する、そして極力必要なもので生活し、無常で将来何が起こるか分からないからある程度貯金する。あとは極力与える(布施、募金)ために使いなさい】という趣旨のようです。 欲しいものを買うために必要なものを節約するなら、それは仏教的には賢いとはいえないと思います。 また、過度に貯金することもスマナサーラ長老は良くないと仰っています。 過度に貯金するより与えた方が徳を積むことになると思います。
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