シン・レッド・ライン 【VALUE PRICE 1500円】 [DVD]
祝!テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』カンヌ・パルムドール受賞!
彼の新作が観れる日が再び来るとは思っていませんでした。そんなテレンス・マリック・イヤーの今年だからこそ、書こうと思います。
『シン・レッド・ライン』は戦争映画ではない、と。
この映画が公開されたのはもう10年以上も前ですが、その時マリックはたった2本の映画を撮ったのみで映画界から遠ざかっていた「伝説」で「幻」の監督でした。だから、当時のマスコミは「伝説の監督の復活」というキャッチコピーでこの映画を宣伝し、マリック映画を良く知らない人間まで過剰な期待をしてしまった、のだと思います。
もうひとつの不幸は、ほぼ同時期に『プラベート・ライアン』が公開された事で、露骨に比較されてしまった事。しかし、表向きは戦争映画のように見えても、本作は本質的に全く違った作品だと思うのです。だから比較すること自体がそもそも間違いなのだ、と言いたい。
テレンス・マリックは、デビュー作の『地獄の逃避行』から一貫して「人間界の営み」と「自然」を対比して描いてきた監督です。人間ドラマを繊細に描きつつも、突如として昆虫や動物、自然の風景などがインサートされ、人間たちの愛憎や争いも、世界の大きなうねりの中の小さな出来事でしかない、という事に気づかされます。そしてそれが、マリック映画において最も重要な視点なのです。
確かに、マリックの映画は情報量が多いので、そこで描かれる全ての事に神経を集中しながら観ていると、混乱しかねません。特に本作は色々な登場人物のモノローグが交錯するので、誰が何を言っているのか判らなくなるような所もあるかもしれません。しかし、マリック作品で描かれる人間ドラマは「作為」を持って語られるものではなく、一つ一つの人物の言葉や行動に絶対的な「意味」が込められたものでもなく、それは言ってみれば人間社会という「混沌」を無作為に描いたもの、のような気がします。
マリック監督はリハーサルをする事を嫌い、「Ready, shoot!」で始める、よくある現場と違い、役者に自由に演じさせ、いつの間にかカメラが回っている・・・といいます。そんな撮影スタイルにも、監督の独特な目線が感じられる気がします。
この映画で重要な点は、ヨーロッパ戦線ではなく太平洋戦線を舞台に選んだ、という事です。つまりここにはまさに「荒々しい自然」の中に放り込まれた人間たちの姿があるのです。
激しい戦闘の最中にインサートされる、巣から落ちた鳥のヒナののたうつ姿 ― これはよくある「象徴」の演出ではなく、「人間が殺し合っている最中でも、同時に自然界でも生命の生と死が進行している」ことを表し、兵士が指で触れると閉じる「ねむり草」や、草原を進む兵列の間を飛んでゆく色鮮やかな蝶 ― これは、生きているのは人間だけではなく、人間の周りにはつねに「生命」が存在している事を表しています。そしてこの映画では、ラストに向かうにつれ「自然」との対比がいや増していく事に気づくはずです。
筆者は特にナチュラリストでも、狂信的な自然保護の思想を持った人間でもありません(シー・シェパードとか大キライだし)。ただ思うのは、人間は単体の存在として生きている訳ではない、という事。
人間は自分たちが地球上で最も優れた生物であるかのように振舞っていますが、地球という大きな仕組みの中で、個々の生命が果たしている役割の重さは皆変わりありません。生命にしても無機物にしても必ず何かと関わりを持っていて、他の生命の存在を必要とし、また必要とされることで「世界」は成り立っています。
よくマンガなどで「私は完全な生命体になった!」とかいう描写が出てきますが、それはもう絵空事で、他の生命との関わりを必要としなくなる、という事は裏を返せばこの地球上に存在している意味がなくなる=生命として「完全」になるというのは「滅ぶ」と同義語だと筆者は思っております。
進化の果てにあるのは滅亡、というのはそういう意味なのではと思うのです。
多くの映画監督は大抵「人間」しか見えていません。またほとんどの映画は「人間」だけを描いた作品です。風景を美しく描いた映画は多くあっても、大抵のものは人物の心理の象徴として描かれています。が、テレンス・マリックは風景(自然)を人間社会の対照として描き、それによって人と世界の関わりを我々に気づかせてくれます。
例えばヴェルナー・ヘルツォークの映画にも、そうしたテーマを垣間見る事はできるし、バルベー・シュレーデルのいくつかの作品にも、近いものがあるかと思います。しかし、デビューから一貫して同じテーマを追求し続けているのは、テレンス・マリックぐらいではないでしょうか。
この映画には、ウィット二等兵という一人の純粋な青年が登場します。普通の戦争映画なら、彼は人間の争いの醜さを目の当たりにし、それを語る客観的な立場のキャラクターとして描かれるはずです。しかしこの映画では、ウィット二等兵も特別扱いはされません。普通の兵士と同じく、普通に死んでゆきます。自然界の生死ににはえこひいきがないのと同じように・・・。
映画のタイトル『シン・レッド・ライン』は何を意味するのか?それは「人間」と「自然」の間に引かれた境界線のようにも思えます。Thin = 細い、その境界線は人間の頭の中では存在しているかのように思えても、実は存在していない・・・そんな風にも解釈でき、あるいはもっと抽象的な別の「何か」を象徴しているようにも思えます。
この映画のレビューを読むと、賛否両論に真っ二つに分かれていて、『シン・レッド・ライン』を好意的に受け止めている方は皆、戦争映画という枠を超えた「何か」がこの映画に存在することを感じているようです。また否定意見は皆、戦争映画としてしか本作を見ていないのが判ります。
この映画の中で我々が見なければいけないものは、史実に対して正確か、とか日本兵の描き方がどうとかいう事では、ありません。枝葉末節に捉われていたら、樹の幹が見えなくなってしまうのと同じで、ここに描かれる「戦争」は、人間同士の争いという、普遍的なテーマの象徴物でしかない、のです。
よく「お金を払ったからオレ様はお客様だ。だからオレ様の満足するものを観せろ」という態度の映画ファンがいますが、筆者はそれには賛同できません。商売というものの上に成り立ってはいても、作品と接するというのは創り手と受け手の「作品」を介したコミュニケーションだと思っています。
だから創り手は何を伝えようとしているのか?それを考えて、受け止めようとする姿勢を忘れてはいけない、と思うのです。
解釈は観た人の数だけあって良いと思います。「シン・レッド・ライン」のレビューを読んでいても、筆者などよりずっと深い考察をしている方もいて感銘を受けたりもします。どんなメッセージを作品の中に見出しても、それは個人の自由です。
だから「戦争映画を観に行ったら、全然違うものだった」― それはちっともネガティブなものではない ― 思いもしなかった発見と出会う、これほど素晴らしい体験はないのではないでしょうか。
映画のラストカットで映し出される、打ち捨てられたヘルメットの穴から真っ直ぐに伸びるマングローブの若木・・・それは、死んだ兵士への哀惜の意を込めたセンチメンタルな画ではなく、
「どんなに人間が醜い争いを繰り返し、自然を破壊しても、自然は必ずまた再生する ― 」
そんなメッセージが込められているのではないか、と筆者は思いました。
マリック監督は、本作の後『ニュー・ワールド』で、自然と共存していたヒロイン=ポカホンタスが人間の文明社会へ嫁いで行くことで、何を得て、何を失ったかのか ― を描き、長年のテーマに決着を着けたかのように思えました。
そして、新作『ツリー・オブ・ライフ』は、父と子の物語と交錯させながら、宇宙の存在(生命の樹?)を暗示していくドラマ、のようです。
テレンス・マリックが『シン・レッド・ライン』の向こうに見出したものは何か ―
8月の公開が楽しみです。
祈りの島~映画「シン・レッド・ライン」の音楽
映画でのイメージが残っているせいか、殆ど1曲目か2曲目をリピートして
聴いています。
聖歌らしい「祈り」や「願い」のようなものが良く表現された楽曲ばかりで
非常に良いアルバムだと思います。
アカペラ音楽に興味があれば買って損はない一枚です!
REDLINE オリジナルサウンドトラック
初めてサントラに手を出しました。そしてとても満足しています。
好きなのは、やはり主題歌とも言えるREDLINE DAY(最終トラック)。
これは本当にいいです。映画の公式HPでも、いい感じでこの曲が流れていますよね。
そして、のっけからのYELLOW LINEもすごいです。
映画も、予選のYELLOW LINEのところが、畳みかけるように一番濃く、熱かったので、
その映像がよみがえってくるようです。
この映画は画も濃いですが、音も濃いです。
なにせ、このCDにも42曲も入っていますし、そういうところがまた濃い。
しかし「入れすぎだ。どれを省くか?」とか、しなくて良かったと思います。
この濃さがREDLINEの真骨頂なのですから。
シン・レッド・ライン [DVD]
ずいぶんと賛否のわかれた映画です。私も最初はあまりに退屈で熟睡してしまいました。
米映画にでてくるあいかわらず変な日本人とか…。
しかし,何かひっかかるものがあり,しばらくたったあとに見返したところ,評価が一変して,個人的なベスト映画の1つになりました。
理解しにくい映画だと言われていますが,以下のようなことを前知識としてもっておけば,かなりわかりやすくなるのではないでしょうか。あくまで私見ですが…。
この映画全体を貫いているのは「人間は物質レベルでは個別の存在であるが,精神レベルでは互いに結合されており,世界のすべてが精神的には一体である」というスピリチュアル・ワンネスと呼ばれる古代からある思想だと思われます。
このことは映画の冒頭近くの「人間は1つの大きな魂を共有しているのか。幾つのもの顔を持つ1人の男なのか…。」という台詞などから察せられます。
(なお,DVDのカバー写真は3人の男の眼のアップなんですが,この世界観を端的に表現している意味で秀逸であると思います。それとラスト近くに,主人公の1人であるウィット二等兵が現地の子供たちと水中でたわむれるシーンがあるのですが,これも映画の世界観を端的に表わす映画史上に残る名シーンだと思います。あくまで個人的にですが…。)
何度も脱走を繰り返す軍隊(社会)不適応者ながら,ウィット二等兵は,仲間と部隊の危機を救うためにあえて危地に赴くのですが,彼はこういった世界の一端(作中では「輝き」と表現される。)をかいまみてしまった人間であり,このように理解すれば,その行動の動機も見えてくるのではないでしょうか。
作品全体を通じて,虚空の一点から「米兵」「日本兵」「現地の人々」「動植物などの自然」を含む森羅万象の「平和な営み」や「激しい葛藤」(その一部として「戦争」がある。)をまったく同列にみつめているかのようであり,その映像は極めて美しいです。
このような作品なので,血湧き肉躍るガダルカナルでの日米将兵の激闘を期待している方(私もそうでしたが…。)にはまったくオススメできません。
この映画は戦争映画ではなく,上記のような視点から,人間同士の社会活動の中でもっともドラスティックなものである「戦争」を中心素材にしているにすぎないものと思われます。
そういう意味で,単なる数十年前にあった戦争を描こうとしているのではなく,本当の意味で普遍的なテーマを内包しているように思えます。