日本フィル・プレイズ・シンフォニック・フィルム・スペクタキュラー Part1~アラビアのロレンス(愛と冒険篇)~
1980年代以降、映像音楽の録音といえば、ジョン・ウィリアムズの指揮するボストン・ポップス・オーケストラとエリック・カンゼルの指揮するシンシナティ・ポップス・オーケストラによるものが、質的に突出したものとして存在してきた。
しかし、前者に関しては、オリジナル・サウンドトラックの演奏と比較すると、しばしば、演奏に生気を欠くことが多く、また、後者に関しては、近年になり、編曲に劣悪なものが増え、指揮者も精彩を欠くようになり、徐々にこのジャンル自体が魅力を失うようになった。
しかし、今世紀にはいり、日本フィルハーモニー交響楽団によってたてつづけに録音された6枚のCDは、上記の両横綱の録音と比較しても遜色のない、高水準の内容を誇るものである。
沼尻 竜典と竹本 泰蔵という有能な指揮者の的確な演出のもと、20世紀の古典ともいえるハリウッドの代表的な作曲家の傑作の数々が実に見事に奏でられている。
これらの演奏の特徴は、あえていえば、オリジナルの魅力を過剰な演出をくわえることなくありのままに表現していることにあるといえるだろう。
いずれの作品も、世界中に配給される映像作品の付随音楽として作曲されているために、もともと高度の娯楽性と表現性をそなえた作品である。
ここに収録された演奏は、それらの作品が堅実な職人性のうえに自然体に演奏されるだけで、視聴者に無上の歓びをあたえてくれることを明確に示していると思う。
いずれにしても、20世紀後半、正当な評価をあたえられることなく、ハリウッドの片隅において高水準の管弦楽曲を創造しつづけた数々の現代作曲家の労作をこうしてまとめて鑑賞してみると、あらためてそれらが実に良質な作品であることに驚嘆させられる。
そこには、紛れもなく、最高の職人性と大衆性が見事な結合を果たしているのである。
日本フィルハーモニー交響楽団による6枚のCDには、そうした身近なところに存在していた現代芸術のひとつの奇跡が封じ込められている。
アイズ・ワイド・シャット オリジナル・サウンドトラック
「EYES WIDE SHUT」公開直前、僕はまだ中学生でしたが、深夜番組の合間に何度かこの映画のCMを観て、なんだか分けの分からない色気の欠片みたいなものを感じていました。それから数年たってこの映画を観、これが非常に重要な一作であることが分かったのですが、僕がこの映画のサントラを買ったのは、やはり中学生のときに深夜に見た、あのCMの余韻を未だに引きずっていたからだと思います。JAZZとオーケストラを主に音楽界のベテランが集結し、ネリにネって案外シンプルに素晴らしいコンピが完成しました。といって昔から有名な名曲も入っています。キューブリックから学ぶべき物は絵やシナリオだけではないと思います。彼は理屈以上に感覚を重要視した人ですから、彼の選曲というのは一種のキューブリックユニバースなわけで、研究価値は十分になります。
なんとなくイメージとして「こういうのあったらカッコいいなぁ」というのを完成度高く具現化するとこういうアルバムになると思います。これはジックリ聴いても、何かの片手間に聴いても、重宝できる一作であります。
ビフォア・ザ・レイン [DVD]
DVD化希望を叫んでいましたが、実現しました!日本でのDVD化は、もうないかな・・・と内心あきらめていたので嬉しいです。
すでに発売されている海外版と同じ仕様で、メイキングも付いているようです。とにかくこの名品を、多くの方に観てもらいたいと思います。
マケドニアの俊英・ミルチョ・マンチェフスキーが『ビフォア・ザ・レイン』を引っ下げて鮮烈なデビューを果たした'90年代は、タランティーノの「パルプ・フィクション」をはじめ、物語の時間軸をパラレルに解体するという試みに挑む、若い世代のフィルムメーカー達が同時多発的に出現しました。本作は中でも多くの映画人たちから称賛された傑作です。
舞台は、我々日本人には中々なじみの薄い、バルカン半島の小国、マケドニア。そして民族紛争や、キリスト教でも、これまた日本人になじみの薄い正教(キリスト教の中でも最も古い宗派)の世界が描かれますが、そこで描かれる人間ドラマと、巧みな映画話法は、国境や価値観を超えて心に迫るものがあると思います。
映画は3部構成のオムニバス。
第1部「言葉」:マケドニア、正教の修道院。「沈黙」の誓いをたてた若い僧キリル(グレゴワール・コラン)の元に、マケドニア人と敵対するアルバニア人少女・ザミラが逃げ込んでくる。二人は恋に落ち、駆け落ちするが、二人の行く先を暗示するかのように、雨雲が・・・。
第2部「顔」:ロンドン。カメラマンのアレックス(レード・セルベッジア)は、同じ職場で働く恋人アン(カトリン・カートリッジ)に突然「故郷マケドニアに帰るから一緒に暮らそう」と言う。しかしアンは決心がつかない。そしてアレックスは一人マケドニアへ・・・。
第3部「写真」:16年ぶりに故郷に戻ったアレックス。しかし民族同士の対立はさらに深まっていた。そんな中、アレックスはかつての恋人で、今は敵対するアルバニア人のハナから「マケドニア人を殺してしまった娘のザミラを助けて」と頼まれる。アレックスは悩み、同族を裏切ってでも、ザミラを助ける決心をする。親類が放った銃弾に倒れるアレックス。そしてザミラが逃げる先には修道院・・・そこでは一人の老僧が、雨の到来を予感していた・・・。
物語ははじめ、オムニバスのように見えます。しかし、「雨」をキーワードに、全く別の視点と舞台で語られていると思われた物語が、ラストでつながってゆきます。しかも上記のあらすじでは紹介しきれない、細かいエピソードが入り組み、めくるめくモザイク画の様に。
しかし、マンチェフスキーが行った「時間の解体と再構成」は、単なるストーリーテリングのテクニックではないのです。映画の中で、観客へのメッセージの如く、壁に書かれた「The circle is not round」・・・。
マンチェフスキー曰く「この3つの話をつなぐ“円”は必ずしもつながっていない事を、映画の終わりは暗示している。どこが始まりでどこが終わりなのか?時間は死なないし、終わらない。まるで禅問答のように」
それぞれのエピソードに登場する人物の運命は、ひょっとすると全く違った未来が待っているかもしれない、そういう解釈もできるのです。そう、「ビフォア・ザ・レイン」は、パラレルに解体された物語が一本に修復される、のではなく、物語の先に待つ、パラレルな可能性を提示した「物語」のための「物語」を語った映画なのです。
十五歳の時に、「トルストイのように何千ページも書かなくったって、俳句は素晴らしいものを表現できる」と言って文学の教師を激怒させたという、マンチェフスキー監督。ムム、早熟ですな。
次作『ダスト』において、マンチェフスキーは“「物語」とは語り継がれるもの”をテーマに、これまた物語の本質に迫る素晴らしい作品を我々に提示してくれます。
「物語とは何なのか?」この根源的な問いを、先鋭的な視点で探究したマンチェフスキーは、その後残念ながら映画を撮るチャンスを中々得られないのか、日本未公開作『Shadows』('07)を撮った後は、大学で教鞭を執っているようです。
新作を一刻も早く撮ってほしい監督であり、また日本未公開の作品もぜひソフト化してほしい、と切に願うばかりでありますが、まずはこの名品との再会を楽しみに待つとしましょう。