Concert at SUNTORY HALL [DVD]
山崎まさよしファンなので、購入しましたが、
CDもよいですが、DVDはもっと素晴らしいです。
オーケストラをバックに、あんなカジュアルスタイルで臨めるのは、
「山崎まさよし」しかいないでしょう。
(とはいっても、いつものチェックシャツではなく、
ペイズリー柄のおしゃれな感じではありましたが。)
あの迫力、ギターテクニック、飾り気のないMC。
ほんとに好きです。
「花火」の魂込めた熱唱は、ほんとに感動いたします。
CDと、DVDでしたら、絶対DVDがおススメです。
服部さん率いるラッシュオーケストラの素晴らしさも堪能できます♪
おススメ!
ギター弾き語り 山崎まさよし ONE KNIGHT STANDS
完全なコピーというのはなかなか出来ないもので、まして本となると手抜きだらけというのが実情です。しかし、これは凄かった。まさに完璧。よくぞやってくれたと拍手、感動ものなのです。山崎まさよしのギタープレイはとても凝っています。アコースティックギターの魅力を堪能させてくれます。それゆえそのフレーズが弾けたとき、階段を一つのぼった自分に気づくはずです。弾きはじめの10代からおじさんまで完璧に楽しめる一冊になってます。買って損は決してしません。
雲の上はいつも青空 ~ハービー・山口 フォトエッセイ~ (玄光社MOOK)
エッセイ部分は前著の「僕の虹…」のほうが(長文なので)読み応えがあると思いました。
だけど写真…特に「スナップ」と呼ばれるものや人物写真全般を自分で撮る方ならこちら。
掲載された写真全てにカメラ・レンズ・フィルムのデータが付記され、そこから様々な情報が読み取れます。
レンジファインダー+35ミリレンズの優位性が良く解るというか、氏がその恐るべき使い手である事がわかるというべきか…
また、一番最初に購入したのがニコンFと105ミリレンズという事で、被写体との距離感の変遷が感じられ大変興味深い。
撮影機材や暗室についてもページが割かれ、惜しみなく「撮影のコツ」までが開示されており
自分で写真を撮る人には実にためになる一冊だと思います。
ギブソンJ-45永久保存ガイド (晋遊舎ムック)
ショップで謳われていたこともあり、自分の持っているJ-45を1962年製だと思っていましたが、実は1963年製だったと判りました。
この本を見なければ、ずっと間違ったまま過ごしていたでしょう。
今後、もう1本入手予定なので参考にしたい。
評価を★5個にしなかった理由は、奥田、斉藤両氏の記事にページが割かれ過ぎであること。
両氏のファンならともかく、J-45についての資料として望む立場としてはその部分を半分にして70年代、80年代まで踏み込んで欲しかった。
秒速5センチメートル [Blu-ray]
この映画の主役はなんといっても映像でしょう。会話やストーリーは簡潔で、その分映像で全て語っています。全体的には悲しげな雰囲気ですが、小説などで景色の描写がそれを見る人の心境を表すように、この映画全編を通して描かれる美しい景色は、日常のささやかな、けれども確かな『希望』の象徴なのではないでしょうか。
以下ネタばれ。そこで是非とも気づいてほしいのが主人公が追い求めていたもの。踏み切りの向こう側にあったもの。具体的には明里ですが彼女は象徴的な存在です。この映画の一番最初と最後の踏み切りのシーン、わざわざ同じアングルにしてあるのだから当然意味があると思います。最初に小田急が画面いっぱいになったシーンは、ラストの貴樹が踏み切りで振り返ったシーンにつながっているのではないでしょうか。PVでもそうでしたしね。
小学生時代の初恋の人を忘れられず、中学、高校、大学と過去に縛られて生きてきた貴樹(ずっと小田急の向こうにいるはずの明里を見つめる貴樹〔小学生から大人へ〕)・・・年月が過ぎ(小田急が通り過ぎ)大人になった貴樹の目の前に明里の姿はなかった・・・
貴樹が追い求めていたのはもちろん明里です。しかし、文通が途切れ、時が経つうちにいつの間にかそれが具体性を失っていきます。(第一話、彼女を守れるだけの力がほしいと強く思った→第二話、最初のシーンで貴樹が見ているのは明里ではなく遠くの光、→第三話、コンビニに入る前の独白「届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何なのか・・・会社を辞めた」)
このように明里への想いは徐々に抽象的になり最後には貴樹ですら何を追い求めていたのか分からないと言っています。これがラストシーンで明里が姿を消した理由ではないでしょうか。ストーリー上で納得いく理由というのは明確に説明されていませんが、それはそもそもこの作品のメインの部分に細かいストーリーが必要ないからだと思います。
そして最後に貴樹が微笑んでいたのは、彼が追い求めていたものが明里という具体的な存在から、なにか大切なもの、想い、に姿は変われど存在していたから。そんな大切な想い(大切な人)をどこかに隠している世界そのものを愛おしく思えるよな気持ちがあったからではないでしょうか。
それこそがこの映画の根底にあるもの、全編に散りばめられた美しい世界の、微かな、けれども確かな希望なのだと思いました。 ストーリーだけなら中途半端な恋愛物語がこれほど心を揺さぶる理由は、こういったテーマが無意識のうちに伝わってくる作品だからなのではないでしょうか。
最後に小ネタ一覧(想像+小説より)
第一話・・・
踏み切りのシーンのラストとの繋がり
手紙を書いている貴樹の思いは鳥になって明里の元へ
岩舟駅への道中、焦る貴樹の想い→吹雪・半分諦め?疲れ→静かに降る雪
明里との別れのシーン、明里「あなたはきっと大丈夫。」(もう会えない、諦め?)
それに対する貴樹「手紙書くよ。電話も。」(諦めきれない、執着)
鳥は二羽に(二人の宛てのない思い)
第二話・・・
冒頭シーン、夢の中の光景が永遠の想いが存在する場所のイメージ(実在しない)
弓道で遠くの的を真剣な瞳で狙う貴樹(執着心の比喩)
冒頭シーンの景色と後に花苗が紙飛行機を飛ばした場所の景色の構図が同じ、特徴的な木が一本あり、夢の中での太陽?の光は現実には風力発電のライトになっている。心象風景の元?
私は犬じゃなくてよかったなあ(犬のカブが花苗のすぐ横でしっぽ振りまくり)
カブのエンスト(花苗の決心が折れる)
太陽系外探査のロケット(遠く昔の思い出、深遠にあると信じる大切な思いを追い求める貴樹)
打ち上げシーン(ロケットと自分を重ねる貴樹、貴樹はロケットと同じだと思い知った花苗)
ロケットの煙で真っ二つに分けられた空、電線で真っ二つの月(ロケット打ち上げ前と後の花苗の心境の変化)
第三話・・・
宇宙の遥かかなたへ飛んでいく探査機・お互い相手に出せなかった手紙・東京の上を飛ぶ二羽の鳥(二人の宛てのない想い)
明里と貴樹が昔を思い出す(雪と桜の花びらは思い出の象徴、)
桜の花びらを握り締める貴樹、特に気にしない明里
映画館でみたかったなあ・・・
※後日付け足し&手紙について...
新海誠監督の作品に共通するテーマのひとつとして、”「永遠の想い」?のようなものが存在してほしいという願い”が挙げられると思います。
ここでいう「永遠の想い」というのは例えば、心の拠り所になるようなもので、それも、何事にも左右されない絶対的なものという意味なのですが、新海誠作品を見るたびに、私はそういうものを感じずにはいられないのです。
分かりやすい例でいえば「ほしのこえ」での印象深いラストシーンがそれに当たります。
離れ離れの主人公たちの「私は(僕は)ここにいるよ」というセリフが意味するのは時間や場所に関係なくただ何かが存在するということ、つまり永遠・絶対の想いというものがあったらいいな、あるはずだという願いです。
主題歌through the years and far awayの通りのシンプルなメッセージです。
「雲の向こう約束の場所」では、その題名自体が「永遠の想い」が存在する場所ということでしょう。そして、塔が「永遠の想い」のシンボル、沢渡サユリがいなくなり、約束を叶えられなくなったことが
「永遠の想い」の存在条件。約束は失われたことで初めて、永遠性を獲得したのです。そのため主人公たちがその約束を守った瞬間その約束に込められた想いは永遠ではなくなってしまいます。
主人公は自ら「永遠の想い」に終止符を打ち、「約束の場所を失くした世界で、それでも、これから僕たちは生き始める」と決心したところで物語りは幕を下ろします。
秒速5センチメートルではまさにその続きが描かれています。
この作品では、ここでいう「永遠の想い」は「深遠にあると信じる大切な想い」などと表現されています。
第二話の冒頭の異世界が貴樹が追い求めたその想いが存在する場所、前作でいう約束の場所というわけです。
しかし、宛てもなく空を彷徨うアカゲラ・宇宙の遥かかなたへと飛び続ける探査機などに象徴されるように現実世界では貴樹は「永遠の想い」を見つけられません。
さらに決定的なセリフが第一話終盤にあります。「永遠というものや魂というものがどこにあるのか分かった気がした〜僕たちはずっと一緒にはいられないとはっきりと分かった。」
明里との「約束の場所」にたどり着いても「永遠の想い」は存在しなかったのです。
しかし、ここで思い出してほしいのが第一話で二人が書いた手紙の存在です。
年月とともに刻々と変化していく人間関係や自分の想いの中で変わらずにあったもの。
それは初恋の思い出と、失くしてしまったことで時間の経過から置き去りにされた手紙だけです。
相手に届くことのなかった手紙は、風に飛ばされてしまったり、押入れの奥にしまわれてしまい、ある意味で永遠性や絶対性を獲得しているといえます。
それに、明里の手紙に書かれた「あなたはきっと大丈夫」という言葉はその手紙を貴樹にとっての心の拠り所たらしめるのにこれ以上ないもでしょう。
はっきり言ってしまえば”お互いに届けられなかった手紙があるという設定”がこの作品での「永遠の想い」ということになります。
もちろん貴樹は明里が書いた手紙の存在すら知らないのでこれは推測でしかないのですが、彼女との別れ際にほぼ同じ言葉を掛けられているのが伏線となっているのかと思います。
また、パッケージなどにもある”どのくらいの速さで生きればまた君に会えるのか”という言葉が意味するのは、どうすればもう一度君に会って「あなたはきっと大丈夫」と言ってもらえるのか、
絶対的な心の拠り所・「永遠の想い」を見つけられるのか、ということなのではないでしょうか。
ただし、あの手紙はお互いの元に届くことはなかったので、ここから見出せる「永遠の想い」はあくまでストーリーの表面上にはありません。
それでも想いの残滓がまだ存在していることが随所で表現されています。第二話での出す当てのないメールがその最たるものでしょう。手紙からEメールへの変化が流れた時の長さを感じさせます。
また、第一話で貴樹の手紙にこめられた想いが鳥になって明里の元へ・・・という表現がありますが、第三話においても雪の降る東京上空を二羽の鳥が彷徨うように飛び続けています。
そんな中で全編を通して変わらずにあり続けた桜の花びらと雪だけが、大人になった貴樹に”何かは分からないけど大切なもの”を思い出させます。
淡く微かな、まるで人が夜空の星に願いをかけるときの気持ちのようにあやふやな希望が、物語の底を流れ続けます。
それとは対照に私達、視聴者側には、実際には存在しなかった「永遠の想い」の痕跡を桜や雪として表現することで、その絶対性や神聖さが極限まで高められているように見せています。
また、第三話において明里の手紙だけは現物が存在しています。しかし、「私も、彼も、まだ子供だった」というセリフから、その存在価値はもはやただの思い出になってしまっていると考えられます。
現在見ている手紙の持つ意味は、明里にとっても貴樹にとっても、もはや手紙を書いた当時のものとは違ってしまっている、または失われてしまっている、
というと”今見つめている星の光はもっと昔のもので、実はとっくに滅んだ星の光かもしれない”というのに似ていると思いませんか?
人が星に願いをかける理由というのが、その絶対性や神聖さ(暗い夜空を美しく照らす神聖さ、希望の象徴、あまりに遠くどうすることもできない絶対性、今見ている星の光は大昔のもので実際にはもうなくなっているかもしれないというような存在の不確かさ、)
にあるのだとすると、二人の手紙はそれと似たようなものを感じさせるのです。
新海誠監督の過去作品には、「永遠の想い」が存在し得る場所は、かなり具体的に描かれています。前作では塔に行くという約束、あるいはと塔そのもの、
前々作ではメール、あるいは携帯電話のメールBOXがそれに当たります。
そして、その「場所」には毎回確かに「永遠の想い」が届けられます。前作では主人公達は実際に塔まで飛んでいき、前々作ではノイズまじりでもメールが届きました。
今作では手紙をなくした事により「場所」は用意されましたが、そこに「永遠の想い」が届けられることはありませんでした。
そこにあるのは一度はほとんど忘れてしまった遠い昔の思い出だけなのです。「そんな簡単に救いが降ってくるわけない〜。」第三話より。
そんな世界で貴樹が長い長い旅の果てに見つけたものは、昔と同じように美しく舞い散る桜の花びらでした。
実際には10年以上の時が経ってるのですが、それは彼にとって時間の経過を感じさせないものでした。
そして、その直後、貴樹自身にすら何か分からず、それでも探し求め続けていた「何か」が、突然目の前にそれも非常に具体的で強烈な記憶ととも掠めていきました。
そんな明里との一瞬の邂逅は、この世界のどこかには確かに「永遠の想い」が存在することを(存在したことを)貴樹に感じさせたのでしょう。
「こんなとこにあるはずもないのに」ということは彼が一番良く分かっているのでしょうが・・・だからこそ彼は明里の後を追おうとしなかったのでしょう。
私達は時間という絶対的な尺度によって「永遠の想い」とは遠く切り離されてしまっている。けれども、この不条理ながらも美しい世界はその淡い希望の存在を僅かに感じさせてくれる。
ラストの彼のどこか悲しげながらもすっりきりした表情は、そんなことを私達に教えてくれた気がしました。この作品はそんな淡い救いの物語です。
きっと私達にも「永遠の想い」とまでいかずともそれに似たようなものはあるはずなのです。例えばそれは街中の何でもない景色に、それこそ急行待ちの踏み切りあたりからでもふと思い出されるようなことなのでしょう。
この作品中、常に描かれ続けたどこかで見たことのあるような日常の風景、時間や場所が多少変わったくらいでは分かつことができないほど、ああいうものに私達の心はどうしようもなく縛られてしまっている。
だからこそ私達はこの作品を見て感動するのでしょう。